「人は死んだらどうなるのか。人には魂というのが果してあるのだろうか。人は死んだらどこに行くのだろうか」 という考えは今まで多くの人の関心と同時に解くことができない宿題として残っていました。すべての人間たちは 「私」という存在に対して思って研究したがその誰も答えを与えることができず、「私」を誰が創造したのか悟ることができなかったまま、ただ知りたい欲望だけが先立って哲学を作り出したりもしました。このように魂について無知だった私たちに、安商洪様が来られて神様の教会を建ててくださり、聖書に明示されたとおり全人類は天で罪を犯してこの地に下った天使だということを知らせて、自分の存在価値と生の目的を故郷である天に残して生きて行かなければならないということを正確に知らせてくださいました。 我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28) 神様の教会では安商洪様を信じています。神様の教会では天の母を信じています。使徒ペトロの思想と魂
ペトロはイエス • キリストが昇天なさる直前にくださった御言葉を常に憶えていました。
ヨハ21:18~19 『はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところ連れて行かれる」ペトロがどのような死に方で、神の光を現すようになるかを示そうとして、イエス はこう言われたのである。このように話してから、ペトロ に、「わたしに従いなさい」と言われた。』
ペトロが福音の生涯をほとんど仕上げる直前、彼はイエス • キリストが自分にくださった御言葉を思い出しながら自分が去った後聖徒たちを気づかって次のように記録しました。
二ペト 1:13∼14 『わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、 あなたがたにこれらのことを 思い出させて、奮起させるべきだと 考えています。わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。』
ペトロは自分の死を示して「幕屋を脱ぎ去る(口語訳)」と表現し、幕屋を 脱ぎ去ることを示して自分が去ると言っているからペトロが(魂が) 体を去るのではなくて何ですか。ペトロの魂が体の中にいる時はその体がペトロの家だがその魂が去った後には土に帰ってしまうのです。
私たちが使徒たちの思想を知ろうとするのは使徒たちがイエス•キリストからどんな教えを受けたのか。ということを知るためです。今まで見た使徒たちの思想を通じて、彼らはイエス•キリストから私たちの人間の魂が存在するという教えを受けたことが分かります。
私のための生
人間の生の中で「私」という存在は何かと考える時が多いです。ある人々は「人間は生きるために食べる」 または「人間は食べるために生きる」と言います。もちろん二つとも正しい言葉ではありません。
私の主人はこの肉体ではなく、肉体の中に閉じこめられている魂です。私が「肉体」と言う幕屋(Tent) の中に住んでいるという話は、私たちに何かを示唆しています。私たちがキャンプに行くとか野営する時幕屋(テント)で何日間か過ごしませんか。言い替えれば、幕屋での生は、臨時的に過ごす生活です。同じく幕屋に比喩された肉体の中での生は、しばらく住む家に過ぎません。
私たちが表の人である肉体のために生きたら、彼は家のために生きる人でしょう。人は家ではない私自身のために生きるのではないでしょうか。
私たちが信仰生活をする中にもとも、すれば肉身の生にもっとかたよる時があります。もちろん私たちが肉身を着ている以上、肉身の生を否定することはできません。しかししばらくあってから消える幕屋のみのために暮したらどれだけ虚しい行為ですか。
たとえ今は罪によって幕屋の中に住んでいてもキリストの過越祭の功労によって救い、すなわち罪の赦しを受けるようになれば神様が準備しておいた永遠な家が待っています。生の比重をどこに置いて生きて行くか答は明確だと考えられます。
二コリ 4:18 『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。』

2 件のコメント:
So we fix our eyes not on what is seen, but on what is unseen. For what is seen is temporary, but what is unseen is eternal..AMEN!!
spirit-bride様 福にあずかるよう願います。一緒に行くよ。
コメントを投稿