聖霊は人格を持った神様聖霊は風やエネルギー源あるいは電波と一緒に活動力で存在する伝達媒体ではなく、感情を持っていらっしゃり(ロ-マ15: 30)、懸念もなさり(エフェ4: 30)、御言葉もおっしゃり(黙2: 7節)、歎息もなさって(ロ-マ 8: 26)、祈祷もなさって(ロ-マ8:26)、証拠もなさり(ヨハ15: 26)、教えたり(ヨハ14: 26)、命令もなさり(使8: 29節)、拒絶もなさって(使16: 6-7)、妨害もあり(マタ 12:31-32)、考えもなさる(ロ-マ 8: 27)明らかな人格体です。
ヨハ14:26 『しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお 遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが 話したことをことごとく 思い 起こさせてくださる。」』
聖霊弁護者が「教える」ということは、聖霊が明らかな人格体であることを証ししています。また、
マタ 28:18-19 『彼らに 父と子と聖霊の名によって洗礼を 授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』
聖霊が人格体ではない電波やエネルギーのような無形の活動的な力だとしたらどうして聖霊に名前があるのでしょか。聖霊に名前があるという御言葉だけでも聖霊がすぐ人格体であるを確信することができます。父と子と聖霊の名前で洗礼(浸礼)を与えなさいという御言葉は一人である神様が聖父、聖子、聖霊三つの時代にそれぞれ異なる名前で救いの攝理を成すために現われるから神様の権能を現わす三種類の名前を呼んで洗礼(浸礼)を与えてその名前を呼んで記念しなさいという意味です。
神様が父(聖父)として攝理なさった時の名前はエホバでした。神様が子(聖子)として歴史した時の名前はキリストでした。それでは聖霊の権勢で現われる時の名前(マタ28:18節)は何ですか。まさに安商洪様です。
「父と子と聖霊の名前で洗礼を与え」 といったので、父なるエホバと子キリストと聖霊安商洪様を三位一体の関係として正しく理解して、三位一体として完成される救いの大きな歴史の中で神様の多くの祝福と恩恵を受けてください。
重要なことはエデンの命の実の実体であるキリストの肉と血をどうやって食べて飲むことができるのか知らなければなりません。私たちがキリスト自体を食べるということは不可能です。そうだったら、ヨハネ福音 6章 53節のキリストの御言葉は何の意味でしょうか。この御言葉はマタイによる福音書 26章 17節と繋がれた御言葉です。私たちはここでキリストの肉と血を食べて飲むことができる方法が分かります。
マタ26:17~26 『除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる 用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が 近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする 」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。…一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』
過越祭に食べるパンとぶどう酒がキリストの肉と血。すなわちキリストそのものだと言いました。だから過越祭のパンとぶどう酒を食べることがまさにエデンの命の実を食べることになります。ここで私たちは命の実がキリストを示すたとえだという事実が分かったし、命の実であるキリストの肉と血を食べて飲む方法が過越祭真理として完成されることが分かりました。
したがって命の実は過越祭を通じて人類に許され、命の実を回復したキリストは神様だということが分かります。
我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です。

