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0021-03-18

<安商洪様 神様の教会> 神様は愛なり

神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です


神様は愛なり



神様は私たちを愛されるゆえ、この地に来られました。私たちを愛されるゆえにその絶え難い苦難も拒まれず、ゴルゴダの苦痛の中で最後の呼吸が苦しくなられた時にも、私たちのために堪え忍ばれ、私たちのことを気遣われ、私たちのために祈られました。

聖書66巻の中「神様は愛なり」という内容が数限りなく強調されています。神様に先に召され真理の中にいるようになった私たちはこのような神様の愛を悟って自ら実践し、神様の愛を現さなければなりません。

神様が私たちを福音の御業に参加させられた御旨も、先になった私たちが悟った分だけ、神様の愛を世に告げよとの御旨です。神様の愛を理解した人たちなら、その愛を分かちあうこともできなければいけないのではありませんか。

万一、私たちが授かったその愛を世に知らせなかったら世は神様の愛が何であるか、どういう方法で実践すべきか、全く理解することができません。私たちは神様がお許し下さったその愛の御旨を、世に現わし、神様が私たちに授けて下さった愛を世に知らせ、私たち自身も救いにあずかり、世の人々も救いにあずからしめる真の愛を施さなければなりません。


自分も恵まれ、他人も恵まれるようにする「勝-勝」的な人

人間を研究する学者によれば世には三種類の人々がいるといいます。第一のタイプは「敗-敗」的な人で、自分も滅び、他人も滅ぼすタイプの人のことです。分かり易く言って「君も死んで我も死ぬ」「食べられぬ飯に灰をかける」というふうに考えて行う人たちです。

二番目は「敗-勝」的な人で、他人は滅んでも自分さえ成功すればいいというタイプの人です。世間の大部分の人がこのタイプに属すると言っています。そして、三番目は「勝-勝」的な人で、自分も成功し他人の成功も望むタイプの人です。たとえ世には稀であったとしても、世界を動かす力が、まさに彼らから生じると言っています。

神様の喜ばれるタイプも「勝-勝」的な心を持っている人たちです。彼らは自身も祝福にあずかる行動を実行し、他人も祝福にあずかるように神様の愛を分かち合います。シオンにいて真理で新たに生まれ変わた私たちは「敗-敗」的な姿や「敗-勝」的な姿から、最終的には「勝-勝」的な姿に皆変わらなければなりません。そのように変わってこそ神様の御業を実行する真なる働き人として神様の愛を実践し、大いなる祝福にあずかるのです。

今まで私たちが「敗-敗」的、または「敗-勝」的な人であったなら、これからは私も恵まれ兄弟も恵まれるようにする「勝-勝」的な心で、神様に栄光を帰す子にならなければなりません。

一ヨハ4:5-8 『…愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。』

愛することのできない者はまだ神様を良く知らない人です。神様の聖なる品性を正しく理解できないからです。神様の御旨が悟れずに、いかに神様の御業を正しく遂行し、神様を喜ばせてさしあげることができるでしょうか。


相手を先におもんばかる「仲の良い」兄弟

伝来する民話の中に、「仲の良い兄弟」の話があります。

昔ある村に仲の良い兄弟が住んでいました。二人の兄弟は父母から受け継いだ田畑で共に熱心に仕事に励みました。秋の取り入れ時になると、収穫の穀物を同じく分けました。

ところが弟が家に帰って考えてみると、兄はすでに結婚して妻子ある身であって、自分はまだ一人なのに収穫を半分に分けるのは兄に申し分けないような気がしました。それで夜そっと自分の倉の稲を兄の倉に積んで置きました。

一方、兄も考えてみると自分は既に安定した家庭を持っているけれど、弟の方はまだ一人だから新しく家庭を持つようになったら費用も要ることだし、収穫を半分に分けるのは間違っているように思えました。それで兄も夜そっと自分の倉の稲を担いで弟の倉に積んで置きました。

日が昇って次の日、兄弟は自分の倉の稲の高さが昨日と全く同じなのでおかしく思いました。それで夜、また稲を担いでお互い相手の倉に積んで置きました。次の日ももちろん稲の高さは同じでした。その晩も、また次の晩も兄弟は稲を運び続けるうちに結局道でばったり出会いました。お互いの深い兄弟愛を確認した二人は、その場で抱き合って感激の涙を流したのでした。

この兄弟の愛の行いは「勝-勝」的な心から出たものであるといえるでしょう。愛とは「勝-勝」的な心構えです。もし兄弟が自分のことだけ考える「敗-勝」的な人であったらこの話は違っていたことでしょう。兄は家族の多い自分と同じく持って行った弟を叱責したでしょうし、弟は自分の立場を少しも考えずに叱りつける兄に反感を持ったでしょう。自分のことばかり考え相手に対する思いやりがなかったなら兄弟愛は崩れ、睦まじからぬ不幸な兄弟になったでしょう。

詩133:1-3 『見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴りヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。』

神様が一番喜ばれ麗しき者とされる姿は兄弟が和合して共にいるシオンの姿だと言われました。シオンにいる信仰の家族がお互いの立場を理解して自身の利益より兄弟の利益をまず考えたら、それこそ神様が望まれ願われる姿になるでしょう。互いに助け合い世話をしながら兄弟の喜びを自分の喜びのように喜び、兄弟の痛みを自分の痛みのように思いやって、自分の問題よりも兄弟の問題を先に考える姿はいかに麗しいでしょうか。

ですが、相手の立場は全く考えずに自分の気分と感情のまま兄弟に苦痛をあたえるとしたら、神様の願われる「勝-勝」的な人の姿ではありません。兄弟の幸せを望む心が無かったら直ちに「私は高く兄弟は私より低い」といった垂直関係が成り立って兄弟姉妹を愛することができず、冷え、神様を喜ばせてさしあげることができません。

私たちはこの物語りの中の仲の良い兄弟の姿にならなければなりません。兄の立場になって弟を顧み、弟の立場になって兄を理解しなければなりません。

このような愛の心はサタンが決して持ちえない神様の品性です。ですから私たちはこのような神様の品性に象った愛を実践しなければなりません。


愛は和合と勝利が内在しています

朝鮮戦争当時のことです。江原道鉄原地域に「血の稜線」とよばれる高地がありました。休戦直前少しの地でももっと占領しようと南と北の戦闘が激しくなって、昼は太極旗が掲げられ夜は北朝鮮の旗が掲げられていたところでした。

韓国軍の部隊がその高地を死守せよという命令を受けて必死の覚悟で守っていました。一日、二日、三日…韓国軍が昼夜なしにそこを守りましたが、毎日続く戦闘の中で補給路が途絶え水と食糧が切れてしまいました。

そのような最中、銃で打たれた一人の兵士が苦しみに呻きながら水を求めました。戦友の苦痛をみていた部隊員は各自自分の水筒を振ってみましたが、水はすでに底をついてました。その時一人の兵士が大事に残して置いた水が少ししか入っていない水筒を渡しました。

水筒に口をつけて水を飲もうとした負傷兵はふと自分を見ている視線を感じました。喉が乾いていた全隊員の視線が自分を見ていたのです。
彼はその水を飲むことができませんでした。「ゴクゴク」音を立てて飲む振りだけして橫の小隊長に水筒を渡しました。橫で見ていた小隊長も負傷兵の旨を悟って「ゴクゴク」飲む音だけ立てて橫の兵士に水筒を渡しました。「ゴクゴク」「ゴクゴク」…

全ての兵士が一口ずつ代わり代わり飲んで、最後に水筒の主の兵士の所に水筒が帰って来た時、水筒の水はそのままでした。皆飲むふりだけしましたが不思議にも喉の乾きは癒され新しい力が出たのです。彼ら一同は士気が天を衝く勢いで最後まで高地を守ることができたのです。

自分だけ飲んで喉を潤そうとする「敗-勝」的心性であったなら彼らは高地を奪われ全滅したことでしょう。しかし互いにおもんばかり助け合う心が彼ら全員を生かしたのです。愛はこのような奇蹟を可能にしたのです。

このような例がどこよりも多く出るべきところが、まさに私たちのシオンです。「勝-勝」的な心性を持った時、難題はチャンスに転換することができます。仲のよい兄弟の話や血の稜線にからんだ実話からも愛があればいかなる難事も克服し和合して勝利を得られることがわかります。愛には、和合と勝利が内在しているからです。


神様が教え賜れた愛

コリントの信徒への手紙一13章では「勝-勝」的な愛、すなわち神様の愛が描かれています。

一コリ13:1-4 『たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。』

愛の第一条件は忍耐強さです。6千年の年月の間私たちが全て悔い改めるまで堪え忍んで下さり、御言葉で諭して下さる神様の愛を思う時、忍耐は神様の性分であり愛であることが分かります。

愛は他人のためにあるので柔和であるべきで嫉妬をしてはなりません。妬みは他人が私より勝るのを受け入れられない「敗-敗」の型や「敗-勝」の型の人たちに起こる姿です。他人が私より劣ると思えば高慢になりがちですが、愛は自分より他人を高く考えるので蔑んだり高慢になり自慢したりもしません。

至って気高き神様もこの地に来られて私たちの上に君臨なさるのでなくかえって罪人なる私たちに仕える模範を示されました(ヨハ1:1-14、ルカ22:24-27)。創造主である神様も仕えられたのにいわんや罪人なる私たちがいかに自ら高い位置に留まることができるでしょうか。

教会で職責や職分の位が高くなるほど家族を蔑んだり、反対に自分が高い職分を受け持たなかったからといって敗北意識に捕らわれたらこれはみんな高慢です。神様は決してこのような姿をお喜びになりません。

一コリ13:5-13 『(愛は)礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう…それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。』

無礼は垂直的な関係、すなわち私が高く相手が低い場合に生じるのです。私が高いと言った考えを棄てなければなりません。神様の品性に似通って行く時神様は豊かな実で私たちに報いて下さいます。神様の愛は礼を失せず御自身の利益を求めません。いくら近い間柄でも怒りません。人の怒りは神様の義を実現しないからです(ヤコ1:20)。また、「勝-勝」的な心で自分も悪くならず他人も悪くならないように常に激励して不義を追いやり真理と共に喜ぶのが愛です。

神様の愛にあずかった私たちが神様の愛に背くようなことをしてはなりません。神様が私たちをこのように愛されたように、私たちも神様の愛で兄弟を愛するようにしましょう。

肉身的ユダヤ人が国権を回復してアラブ人たちと戦った時、彼らは民族愛と祖国愛で一つになって400万の人口で1億を越すアラブ人に勝ち得たのです。彼らは当時アラブ人が自分の民族を苦しめる度に積極的に立ち向かって、ユダヤ人を苦しめる者たちを恐れおののかせるようにしたので、その後アラブ人たちはむやみにユダヤ人を殺せなくなったといいます。

そのような心が全世界に散らばっていたユダヤ人たちを次々に本国に帰国するようにさせたのです。もちろん彼らの勝利の裏には古い契約を守ったことにより神様が下さったこの世での肉身的な祝福がありましたが、彼らの兄弟愛の心は今日霊的なユダヤ人である私たちにも手本になるべき部分です。

愛であられる神様に似た私たちは神様を愛し、真理を愛し、シオンを愛し、家族を愛しましょう。シオンの栄光を顕現する私たちの霊魂の兄弟姉妹に惜しみなき激励と愛を贈りましょう。神様ははっきりと愛が第一だと言われたのに、そのような愛が実践できないでいるのなら、これはまだ神様の御言葉が信じられていないという意味になるのです。

「誰が私に仕えてくれるか」を考えないで下さい。仕えてもらいたがる幼稚な立場に留まらずに神様とシオンの栄光のために苦労する、兄弟に自分から進んで仕える成長した信仰を持つようにしましょう。

サタンが最後の霊的戦争で滅ぶしかない理由もサタンには愛が無いからなのです。愛であられる神様の子にふさわしく愛しあって、妬みや嫉みによって一つに成りえぬようにするサタンの詭計を追いやりましょう。「勝-勝」的な心で私も祝福にあずかって、相手も祝福にあずかる道に導きましょう。

神様はそのために宣教を願われたのです。神様の愛を実践する一番優れた方法が宣教です。宣教をすれば愛の心が自然に生じるので神様に似通って行くのです。私たち全てが祝福を分かち、愛を分かつ仲のよい兄弟姉妹になって、一日も早く愛なる神様に似通った十四万四千人、愛の兄弟姉妹になられるよう願います。

0021-03-15

クリスマスはイエス様の誕生日ではない

神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です
12月 25日 クリスマスはイエス様の誕生日ではない教会はこの事実を知りながらも沈黙している実際、教会に神様の祭りがないなんて!


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神様の教会安商洪様<召された御恵み>

神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です昔、中国の漢の時代に全軍を統率した大将軍の韓信という人がいました。軍士統率においては、立派な将軍でしたが漢の高祖皇帝にお呼びを受ける以前は彼もただの町の無賴漢にすぎませんでした。

そのような彼が漢の高祖にお呼びを受けてから華やかな大将軍に変身し、故郷に錦を飾ったのです。漢の高祖のお呼びがなかったなら韓信は長い間歴史に残る英雄ではなく、市中の無賴の徒として無名の生を終えたでしょう。

聖書の中の多くの人物も神様がお召し下さることで、時には王にもなり、預言者にもなり、使徒にもなり、真理の勇士になって聖書に名が記録され天国に行く約束を授かりました。

そのように今日、私たちも神様に召されたのです。もし私たちも神様から召されなかったなら、いかに空しい人生を生きていることでしょう。本能的な衣食住に関することだけに縛られ、朽ちて無くなる肉身のことだけに励む蛆虫のような生涯を送り、地獄の苦痛にさいなまれたことでしょう。


神様に召された人たち

人生は一場の夢と言います。青春かと思えば、いつの間にか頭に白い霜をいただき、若さは瞬く間に黄泉の花が咲いて明日の契りも無いのがこの地を生きて行く人間の姿です。

ヤコ4:14 『…あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。』

イザ40:6-7 『…肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。』

記録してあるように、人生はしばらくの間現われては消えて行く霧のようで咲いたと思えば散りゆく野花のようなものです。たとえ良い職場、立派な学閥、社会的高い地位にあるにせよ、神様に召されない人は真に憐れむべき不幸なる存在です。そのようなものは朝日が昇れば消え行く霧のようで、死が目前に迫れば何の役にも立たぬ空しいことだからです。

これに反して、いかなる立場にあっても神様に召された人たちはそのこと自体が祝福であり幸福です。

神様に召された人たちの中でも、イエス・キリストとの対話がもっとも多かったために、時には過ちも多かった使徒ペトロを見ると、神様のお召しの御業がいかに大きいか悟ることができます。もし彼が神様に召されなかったら彼の人生は果たしてどうだっただろうか考えてみましょう。平凡な一人の漁師として生き、死んでからは地獄の苦しみを免れなかったことでしょう。

ペトロのみでなく、ヤコブ、ヨハネ、その外の使徒も同じだったはずですし、私たちも同じです。私たちは召されたので燦爛たる未来が予定されています。神様が召して下さらなかったら、束の間の平安とほんの少し上の人生の位置だけを追及して、一日一日流れ行く年月に追われ老いゆく自身に出会う空しく甲斐のない人生を送っていたことでしょう。

パウロが召されなかったなら、彼の人生はどんなだったでしょうか。この地で三、四十年間律法学者として生きて、サウルという名の罪人として彼の人生は終わってしまったことでしょう。そして今日多くのキリスト教信者の脳裏に残る偉大なる真理の勇士としての使徒パウロでなく、神様の民を殺し、迫害した罪人として地獄に入りとこしえに苦痛と刑罰にさいなまれたことでしょう。

またモ-セはどうだったでしょうか。彼もやはり神様に召されなかったらファラオから逃げてミディアンの祭司長の家で続けて羊飼いをしたであろうし、妻子との生活の営みにのみ関心を傾けながら空しい人生を生きたでしょう。モ-セだけでなくヨシュア、ギデオンもその他聖書に記録されたすべての信仰の先駆者たちも皆、神様に召されなかったらただの羊飼いとして一生を終え滅亡したことでしょう。

この地で召されなかった人たちの一生を御覧なさい。私たちがうらやむようなことなどありません。衣・食・住等基本的生活の要件は彼らも私たちも皆備えているではありませんか。しかし私たちの心は平安を享受しながら天国への望みに胸をときめかせています。神様に召された私たちが正にこの世でもっとも幸せな人たちです。

聖書でペトロに会うたびに「祝福にあずかった人」という考えを禁じ得ません。もしイエス・キリストが当時数多くの漁師の中でペトロを召されず、隣にいた他の人を召されたなら、ペトロはただの無名の漁師として肉身の仕事だけを追い求め、意味の無い一生を終えたことでしょう。しかし、神様に召された彼は福音の御業に一線を画する偉大な人物になることができました。

今日私たちはペトロよりもさらに大いなる祝福にあずかった人々です。神様は私たちを召されペトロより幸いなる位置─「初穗」と呼ばれる程の幸いなる位置─にあずからしめようと、私たちを育んで下さっています。神様に召されたことに感謝して慕ったペテロ、ヤコブ、ヨハネは絶対に後悔なき一生を生きました。

「ペトロよ、わたしに従うか。」
「ヨハネよ、ヤコブよ、わたしに従うか。」
「神様がお召し下さったのに、私が何を拒みましょうか。」

キリストに召され船も網も皆捨てて感謝と従順でイエス・キリストに従った彼らの後悔なき生涯を私たちは見習わなければなりません。キリストを宣べ伝え、天国を叫んで受けた迫害と苦難、死の脅威も苦にせずにむしろキリストの御名で迫害されるにふさわしい者になることを喜んで、毎日イエス・キリストが聖子時代の救い主だということを弛まず宣べ伝えた彼らは、今天国の御門で私たちを待っています。


召されたことに感謝して従う者の祝福

召されたことの御恵みがいかに大きいかモ-セの一生を通して調べてみましょう。

出4:1-12 『モ-セは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと…モ-セは主に言った。「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」…さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」 』

当時、羊飼いであったモ-セは舌が鈍くて話術に優れない人でしたが、神様に召されてからは神霊なる気運が常に彼の体に漂っていて、イスラエルの60万の若者らをエジプトから導き出す領導力が生じたのです。そうして荒れ野生活40年間のあらゆる困難と受難のさなかにも常に神様の御旨に従ってイスラエルの民を導くことのできた偉大なる指導者になったのです。

召される前のモ-セと召されてからのモ-セには、とても大きな差がありました。召された後のモ-セはイスラエルの民を救い出す大変有意義で、やりがいのある神様の業に使わされたのです。このように神様に召された人たちは神様の救いの業において、大変意義のある意味深い偉大なる業績を残すことのできる機会にあずかったのです。

モ-セとペトロ、パウロの生涯はキリストのお召しと同時に全く変わって、天国の約束にあずかる麗しき生涯に変わったのです。彼らは神様に呼ばれた時、これが有意義でやりがいのある御業にあずかる絶好のチャンスだと思いました。そのような機会にあずかって感謝し、神様に召されたことを世の中で一番価値あるものと見做して実践した彼らに、神様は栄えある名と報酬を許されたことを私たちはよく知っています。彼らのように私たちも神様に召されたということが、どんなに大きな御恵みなのかを悟って感謝しなければなりません。

神様に召されイスラエルを救った聖書の英雄ギデオンを考えてみましょう。

士6:14-15 『主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」彼は言った。「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」 』

ギデオンは召されたゆえ信仰のある大いなる勇士として聖書に記録されました。神様に召されることができなかったなら、ギデオンも平凡な家長として一生を終えたでしょう。しかし弱々しい者だったけれど神様に召されて新たに変わったのです。

このように召されたことの裏には驚くべき御業があります。モ-セのように舌の鈍い人でも多くの人の心を入れ替えさせる偉大なる指導者になったり、ギデオンのようにごく弱々しい人でも雄々しい勇士になったのです。


神様の御力に頼って

この時代に召された十四万四千人はこの世で一番有意義で、やりがいのある働きをするように選ばれた者たちです。もし、私たちが神様に召されなかったのなら、私たちの人生はどうなったでしょうか。はえない姿で、年月の流れに追われ悲しく歳だけとり、空しく意味のない一生を送って死を迎えたでしょう。

神様に召されなかったなら、その人の生涯は悲惨であるしかありません。そのような人たちに希望を与えようとキリストがこの地に在されたのではありませんか。にもかかわらず召されたことを恵みとして受け入れずに、いつも試みにおちいって恨んだり不平を並べる人がいれば神様はその人を召された人の隊列から除かれるかもしれません。

これからは、私たちそろって新たな覚悟で召された御恵みに感謝し胸に溢れる感動で失った兄弟姉妹を探しましょう。福音の御業に大きな一線を画する私たちになるよう努めましょう。たとえ私たち自身の力は微弱でも私たちをお召し下さった神様がすべての能力を下さります。

神様に召されたことそのものが余りにも大きな祝福であることを悟らなければなりません。神様は私たち皆に意味ある業を委ねられました。私たちがキリストの体の一部になってどんな役割にあずかっていても現在福音の中で私たちが預かっている自分の仕事に常に感謝の心で臨まなければなりません。

どなたがお召し下さってする仕事ですか。神様が私たちをお召し下さったのではありませんか。神様がお召し下さって福音の御業を委ねられたのに、どうして恨みや不平をいうことができるでしょうか。神様がお召し下さり、尊い使命を私たちに任せられ、ペトロよりもギデオンやモ-セよりも勝る十四万四千人の栄光を約束して下さったではありませんか。

マタ28:18-20 『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』

この業のために私たちが召されたのです。お召しを授かったなら、神様がお召し下さったという御恵みを疎かにしてはいけません。ギデオンの勇士のように、神様のために尽くすように召されたことがいかに大きな祝福でしょうか。

あずかった祝福の価値が分からずに、レンズ豆の煮物で長子の権利を譲ったエサウのような愚かな者に決してならないで、ヤコブのように祝福の価値を悟って求めるよう努力する人にならなければなりません。

召された御恵みによって漁師ペトロは使徒になり、牧童だったダビデは王になりました。神様に召された意味がいかに大きいかを常に考えるシオンの兄弟姉妹になられるよう願います。

神様は私たちを召されて、片手には真理の松明を、片手には福音のラッパを握らせて下さいました。そして宣教に必要なすべての力まで下さったのです。多くの兄弟姉妹を探して神様へと導き、大いなる祝福にあずかるみなさまになるよう願います。全ての皆様に神様の大いなる御恵みがありますようお祈り致します。


0020-11-27

神様の教会安商洪様<天の御母様 >

我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です。


<天の御母様 - English version>



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0020-11-26

神様の教会<天の御母様 >

我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です。


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0020-05-09

神様の教会 安商洪様<天の家族と地上の家族2>천국가족과 지상가족2,Heavenly Family &Earthly Family

我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です。

ヘブ 8:5 『天にあるものの写しであり 影であるものに 仕えており』

地上のすべての制度は天の物の模型と影です。 家族制度も同じです。 安商洪様は地上の家族制度を通じて天の家族制度を知らせてくださり家族制度を通じて天の御母様がいらっしゃることを知らせてくださいました。

霊的世界にいるすべてのものはこの地に反映されるようになっています。言い替えれば地上のすべてのものは影で、天のものはそれらの実体です。地上に家族制度を置いたことは天にも家族制度があるということを知らせてくださるためで家族制度構成員にお父さん、お母さん、子供がいることは天にも お父さん、お母さんがいらっしゃり子供がいることを知らせてくださるためです。これは天に父なる神様だけでではなく母なる神様も一緒にいらっしゃるということを知らせようとする神様の攝理です。

皆さんも天国家族になりたくありませんか。天国家族になる方法を調べるようにします。



天の母エルサレム

(하늘어머니 예루살렘)



今まで私たちは家族の構成員の中お父さんと神様の子供についてよく調べました。そうだったら、あと誰が残っていますか?そうです。お母さんです。

갈 4:25~26 『このハガル は、アラビア では シナイ 山のことで、今のエルサレム に当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供と共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば 自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。』 

ガラテヤの信徒への手紙 4章で 「わたしたちの母」という単語を見つけることができます。ここで 「母」は 「私たち」のお母さんです。それでは 「わたしたち」は誰を意味しているのでしょうか。まさに神様を信じる子供です。すなわち天の母なる神様がいらっしゃることを知らせています。

今、私たちは家族のすべての構成員を調べ私たちに天の霊の家族がいることを確認しました。肉身の家族であるお父さん、兄弟、姉妹そしてお母さんがいるように天にも霊のお父さん、兄弟、姉妹がいて霊のお母さんもいることを信じなければなりません。


血縁関係で結ばれた家族構成員

(혈연관계로 이루어진 가족구성원)



家族はお互いに何で係わっていますか?それは血です。家族はお互いに血で繋がれています。肉身の子供が肉身のお父さん・お母さんの肉と血を受け継ぐように、霊の子供は霊のお父さん・お母さんの肉と血を受け継ぐようになっています。肉身の家族が肉身の血で結ばれた関係なら天家族は天の血で結ばれた関係です。なぜなら、地の物は天の物の写しと影だからです。

ヨハ 6:53-55  『イエスは言われた。 「はっきり言っておく。 人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその 人を 終わりの日に復活させる。』 

キリストは私たちにあなたの肉を食べさせ血を飲むようにすることで、私たちは天お父さん・お母さんの肉と血を受け継いで我が身に流れています。ただ神様だけが永遠な命を持っていらっしゃって、永遠な命をくださる神様の肉と血が、供になった私たち皆に許されました。そうだから私たちは永遠な存在になり神様を 「アッバ , 父よ」だと呼ぶことができるようになったのです。



父安商洪様の子供になる権勢

(아버지 안상홍님의 자녀가 되는 권세)



そうだったら、どんな真理を通じて私たちは神様の子供になる権勢を受けることができるのでしょうか。どんな方法で私たちの天お父さんの肉と血を受け継ぐことができるのかみましょう。

マタ 26:17-19  『除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに 来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか 」と 言った。イエスは言われた。 「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。 『先生が、「わたしの時が近づいた。 お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする 」と言っています。 」弟子たちは、イエス に命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。』 

マタ 26:26-28 『一同が食事をしているとき、イエス はパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの 血、契約の 血である。』 

このように、過越祭のパンはキリストの身(肉)であり過越祭のぶどう酒はキリスト様の血です。過越祭のパンを食べてぶどう酒を飲むことで私たちは神様の肉と血を受け継ぐようになりそれによって神様の子供になるのです。

最後の時代に過越祭を再び持って来られた方は安商洪様です。安商洪様は霊的血縁関係を結ぶことができる過越祭を持って来た私たちの霊のお父さんであり霊のお母さんは私たちを生んで養育してくださる真の神様です。

皆さん!天の霊の家族になりたくないですか。新しい契約過越祭によって私たちの天お父さん安商洪様と天お母さんの肉と血を受け継いで神様の国を継がれる神様の子供になって下さい。

0020-05-07

神様の教会安商洪様<アブラハム家の歴史と御母様2>아브라함의가정의역사와어머니2,Abraham2

我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です。

聖書でアブラハムは神様を象徴するので、アブラハム家庭の歴史を通じて私たちが天の相続をどのように受けるのか聖書を通じて知ることができます。

アブラハム家庭の歴史で相続を受けた者はイサクでした。ハガルによってイシュマエルがいたが神様は彼に相続を許さず、サラが生んだ息子イサクに相続を許されました。その理由は自由な者である母サラの子だったからです。この内容で天の相続は天の母によって与えられるということが分かります。安商洪様は聖書の中に隠された秘密の中の秘密である天の御母様の存在を私たちに知らせ教えました。

それでは、安商洪様が知らされた 「アブラハムの家庭の歴史と御母様」に関する預言の御言葉をしらべて見ましょう。



相続人の決定的な要因は母

(상속인의 결정적인 요인은 어머니)



神様がイサクを相続人として選ばれたその理由を調べます。

一番目エリエゼルの場合には、父も自由な者ではなく、母も自由な者ではありません。二人とも奴隷でした。それが神様が彼をアブラハムの相続人として断った理由でした。二番目イシュマエルの場合には、父はアブラハムで自由な者だったが、母であるハガルは自由な者ではなく奴隷でした。それが神様がイシュマエルをアブラハムの後継者として許されない理由でした。しかしイサクの場合にはどうでしたか。イサクは父であるアブラハムも自由な者だったし、母であるサラも自由な者でした。それがイシュマエルとイサクの大きな差であり、それがまさにイサクがアブラハムの相続人に選択された理由でした。

その頃、イスラエルには長子相続制度がありました。ご存じの通りこの制度に従って家庭の長子がその父の財産を継ぐことができます。したがってイシュマエルがイサクより年上だったから 相続人が父系によってだけ決定されたらイシュマエルが相続人になったはずです。しかし長子にもかかわらず、イシュマエルは相続人になることができませんでした。それはまさに母が自由な者ではない奴隷だったという理由のためでした。このような事実を通じて私たちは、相続人の決定的な要因はまさに母親だったことを知ることができます。

ここで私たちが注目しなければならないことは、これはただ一家族の去る歴史に過ぎないのではないということです。ご存じの通り聖書は一個人や家庭の一代記ではありません。それにもかかわらず神様は聖書にアブラハムの家庭の歴史を何回も言及され記録しました。実はそういう歴史はこれから起こる事に対する一つの影でした。アブラハムの家庭の歴史も同じです。誰が神様の相続人になるのかを見せるためにアブラハムの家庭の歴史を一つの預言として記録したのです。

したがってアブラハムの家庭を通じて私たちは相続人を決める、最後の決定的な要因は母親という事実を確認することができます。イサクが自由な女であるサラ、すなわち彼の母によってアブラハムの相続人になったように、私たちもすでに自由な女である私たちの天の母によって神様の相続人になることができるのです。ただ自由な女である私たちの天の母を信じる者、まさに新しい契約で生まれた子だけが私たちの天の父の相続すなわち天国を継ぐことができます。私たちの母について証ししている御言葉をもっと探してみましょう。

ガラ 4:22~31  『天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。… 兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。』

上で見たように聖書は私たちが女奴隷の子ではなく自由な女の子だと確かに言っています。その時にイシュマエルは母であるハガルが自由な者ではない奴隷だったので、父の遺産を受け継ぐことができませんでした。しかしイサクは彼の母サラが自由な女だからアブラハムの相続人になることができました。すでに聖書は私たちがイサクのように約束の子であり、自由な女である私たちの天の母の子だと証ししています。

今日にもこの世には、エリエゼルのような人々、イシュマエルのような人々、イサクのような人々、このように三つの部類の人々が住んでいます。一番目の部類は父なる神様も信じないで母も信じない不信者たちです。二番目の部類は父なる神様は信じていますが母は信じない人々です。三番目の部類は父なる神様も信じて母も信じている人々です。アブラハムの家庭に三人の候補者を考えて見る時、誰が天国を受け継ぐことができますか。言うまでもなく三番目のイサクのような人々です。

みなさんはどの部類に属することを願いますか。もしイサクのような人々の部類に属したければ自由な女の子にならなければなりません。言い換えれば、自由な女である私たちの天の母を信じて迎えなければなりません。聖書がそれを証ししています。

神様は「わたしの民は知識がないので滅ぼされる」(ホセ 4:6) と言われました。ここで言った知識が何の知識だと思いますか。それは神様を知る知識です。私たちは神様を父と母だと悟って、お二人である神様、すなわちエロヒムの神様を迎えて、またわたしたちの母は、父といっしょに私たちを救われるその神様だということを固く信じなければなりません。そうする時、私たちは神様を知る知識を持ったと言え、知識がなく滅ぼされるそんな民にならないでしょう。



聖書は聖霊について安商洪神様だと知らせています。また花嫁についてエルサレム母だと知らせています。終わりの時代に命の水を 許される聖霊安商洪神様と花嫁エルサレム天の母を迎えて天国に入ることを願います。