クリスマスがある12月になると、東西洋を問わず全世界の人々の心を浮き浮きさせます。世界最大の行事であるこの日は、永遠の望みと祝福のために、キリストがこの地に誕生された日だと広く知られています。しかし再臨キリスト安商洪様を信じている神様の教会ではクリスマスを何の日とも思いません。これはクリスマスはキリストの誕生日ではないからです。クリスマス、その中にはサタンの悪巧みや悪賢い策略が隠れています。サタンは世の中の人々に外見上にはキリストを一番よく仕えるようにしながら、実際は太陽神偶像に仕えるように惑わして多くの人を神様に背かせているのです。クリスマスはまさに太陽神バ-ルの祝祭日です。悪賢いサタンは奸巧にもその日をキリストの誕生日のように世界中の人々を騙し惑わし世のすべての人々に崇拝を受けているのです。名目上はその日がキリストの誕生日だから記念していると弁明をして言います。しかしその日は反キリストの初めの類型である太陽神ニムロドの誕生日です。それはクリスマスの起源になるセタナリア祝祭日が持っている意味にもなります。サタンは巧みにも「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない、あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられた神様の教えから逸脱させるため、もっともらしい方法を考え出して、私たちの魂を破滅させようとしています。この時代はサタンがほえたける獅子のように、誰かを食いつくそうと探し回っている時です。身をつつんで目を覚まして信仰にしっかり踏みとどまって、サタンに抵抗しなければならない時です。偽りが真理のように通用されている理由は、真の信仰を持っている人がそれほど少なく、この世が神様に背く道をためらわず駆け付けているからです。さて私たちは最近発表された、クリスマスが12月 25日でないということを明している様々の内容と、12月 25日は昔のロ-マの国の農神、すなわち太陽神の誕生日だということを詳しくしらべて、偽りが真実のようになったこの時代に、真理を回復させなければなりません。聖書で証拠している太陽神崇拝者たちの末路
エゼ 8: 14-18 『彼はわたしを、主の神殿の北に面した門の入り口に連れて行った。そこには、女たちがタンムズ神のために泣きながら座っているではないか。そこで彼はわたしに言った。 「人の子よ、見たか。あなたは、これより更に甚だしく忌まわしいことを見る」と。彼はわたしを主の神殿の中庭に連れて行った。すると、主の聖所の入り口で、廊と祭壇の間に、 二十五人ほどの人がいて、 主の聖所を 背にし、 顔を東に向けていた。彼らは東に向かって太陽を拝んでいるではないか。彼はわたしに言った。「人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは 些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした。また、わたしの鼻に木の枝を突きつけて、わたしを更に怒らせようとしている。 わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。 彼らがわたしの耳に向かって大声をあげても、わたしは彼らに聞きはしない。 』
神様を信じない人だったなら太陽神を信じようが古木に仕えようが何等関係がないけれども、神様を信じている人々が「私以外の神に仕えてはならないない」、「偶像に仕えるな」となさった神様の教えを背いて太陽神に仕えているのは、本当に忌まわしいことではありませんか。甚だしくはその儀式を行う所が、「廊と祭壇の間」と言いますから、ちょうど礼拝をささげる礼拝堂ではありませんか。神様に仕えて敬拝する目的で地上に建てられた教会内で神様に仕えるのではなく太陽神を敬拝しているという事実は本当に驚くべきことです。
サタンはそのようなことを行うのにあまりにも巧妙に落し穴や罠を仕掛けておいて、誰も悟ることができないようにしています。実際太陽神崇拝儀式が人の目にすぐ見分けられるなら、誰がそのような教会に通い、そのような所で神様を探すでしょうか。しかしサタンは人々の目を騙すために、そっと彼らの教理の中に太陽神崇拝儀式を隠しておいて仕えるようにしたのですが、その典型的儀式が日曜礼拝とクリスマスです。
クリスマスは前でも説明したように、その起源がロ-マ人の太陽神崇拝の祝日をキリスト教化したもの、すなわち真理を偽りと混同した霊的淫行の一例です。
クリスマス以外に行う太陽神崇拝儀式
クリスマスばかりではなく今日世界的に広く行われている日曜日制度もやはり太陽神崇拝儀式と関連がある 異敎的な偽りの福音です。日曜日、すなわち Sundayは 「太陽の日」という意味です。日曜日はロ-マ人たちが太陽神に供え物をささげ、礼拝を行った日で、ロ-マ皇帝コンスタンティンが A.D.321年に日曜日を礼拝の日とすることを法令で宣布しました。
彼は日曜日礼拝に対する法令ばかりでなく、日曜日休業の指示も一緒に告げたのですが、コンスタンティン皇帝が下した当時の日曜日休業令についた内容は次の通りです。
「すべての裁判官と市民そして技術者たちは尊敬されるべき太陽の日に休業する。しかし農村の住民たちは農業をしても差し支えない。なぜならば種をまき収穫するのに一番良い日であるからだ。(A.D.321年3月7日)」
1) 日曜日に神様に礼拝をささげる制度を法令化させたコンスタンティン皇帝がその日曜日を「尊敬されるべき太陽の日」にしたことから見て、日曜日が太陽神礼拝日であることがよく分かります。しかし聖書には安息日を心に留め、これを聖別せよという御言葉はあっても、日曜日を礼拝日として聖別して守れよという言葉は 一言も発見することができません。
これにさて基督教会歴史は次のように証言しています。
「しかしこの政策で一番重要な意義を持つのは 321年に日曜日を礼拝日に規定した法令を下したことである。この法令は主の日を異教の祭典日と同等の水準の祭りに認めたことと日曜日は仕事を休むことでその特色を現わしている。しかしこの日(日曜日)は特別にキリスト教的な名称の意味はなく、単に真のめでたい日と言ったのでこれに対して異教徒たちが反対するわけはがなかった。」
2) 聖書はすでにずっと前に預言者ダニエルを通じて、神様を対敵しているサタンが行く行くは神様の時と法を変更させるということを預言しました。
ダニ 7: 25 『彼はいと高き方に敵対して語り/いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され/一時期、 二時期、半時期がたつ。』
神様の聖なる法をロ-マ人の法、太陽神の法で勝手に変更させて、真理の法を偽りの法に変え、理論で合理化させる群集に対しては憐れむことなく恐るべき刑罰を下すと神様が警告しています。
反対に、太陽神崇拝儀式で神様に背きサタンを崇拝する憎むべき行いを見ながら、心を痛め嘆き悲しむ者等の額には貴い印をしておくように指示されました。それは神様を信じていると言いながら太陽神を崇拝する憎むべき 群集を裁かれる時、神様の民を救い出す目的として許されたものです。
エゼ 9: 4-6 『主は彼に言われた。 「都の中、エルサレムの中を巡り、 その中で行われているあらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ。」 また、他の者たちに言っておられるのが、わたしの耳に入った。「彼の後ろについて都の中を巡れ。打て。慈しみの目を注いではならない。憐れみをかけてはならない。老人も若者も、おとめも子供も人妻も殺して、滅ぼし尽くさなければならない。しかし、あの印のある者に近づいてはならない。さあ、わたしの 神殿から始めよ。」彼らは、神殿の前にいた長老たちから始めた。』
イザ 9 12-15 『民は自分たちを打った方に立ち帰らず/万軍の主を求めようとしなかった。それゆえ主は、イスラエルから頭も尾も/しゅろの枝も葦の茎も一日のうちに断たれた。長老や尊敬される者、これが頭/偽りを教える者、預言者、これが尾だ。この民を導くべき者は、迷わす者となり/導かれる者は、 惑わされる者となった。』
このように太陽神崇拝儀式に起因した日曜日礼拝とクリスマスなどの儀式は神様を一番敵対視するサタンの兵器です。サタンは多くの偽預言者たちをこの地に行かせることで神様の御言葉である聖書を遠ざけるようにして、あらゆる哲学と人間的な虚しいまやかしで多くの人々の魂を略奪しています。しかしいくらもっともらしい理論も聖書から始まらないことは神様の教えではありません。神様の救いの便りではない偽りを教えることは、その内容を教える者も追従する者もすべて同じ刑罰にあうでしょう。
今、神様の審判の時が近づいているのですべての魂たちは、日曜日礼拝やクリスマスなどの偽の儀式で惑わす者から覚めて、神様の真理と永遠の命の教えである安息の礼拝と過越祭の真理に従って天国の福楽を享受しなければなりません。
ルカ 6: 46 『 わたしを「主よ、主よ」と 呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。』と言われたキリストの教訓をもう一度思い出しながら神様の掟により一層着念して真理だけを従う天国の民にならなければなりません。

