ラベル 神様の教会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 神様の教会 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

0023-01-09

安商洪様 天の母<神様の教会>母なる神様 張吉子





天の父安商洪様と天の母を信じるよる神様の教会 は救援者である聖霊と花嫁を信じるよります。



我等の教会がこの地上に存在する唯一なる理由があるとしたらそれは神様の御業を行うためであります

不滅の御力にて各時代の摂理を導かれた全能なる神様の御力をほめたたえます。新しい天と新しい地の栄光が近づいて来たこの時に神様は我等の総会に神様の教会の歴史の新しい時代を開け賜り世界福音化の使命を任せ賜りました。


我等の神様の教会の家族たちはこれに対して重大な責任感を持って愛と善行を伴いキリストが我等に任せられた歴史的な召命を尽くして行こうとします。(マタ28:18)我等の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)

時代と歴史は善と悪との対的拘わりの上で成り立って来ました。真理は偽りを拒み、偽りもまた真理を拒んで来ました。そのような歴史の中で真理はいつも抑圧に見舞われ迫害されて来ました。しかしその如何なる瞬間も偽りは真理を勝ち得ずして、暗は光を勝ち得なかったのであります。その理由は神様は常に真理の側におられ、光の中に存在したからであります

我等の神様の教会がそうであります。多くの迫害と企みの中に悩まされながらも初代教会の信仰とその精神をそのまま維持し継承してただ一度もバアルにひざまずかなかったのでした。 そして神様の真理を正しく代弁する教会としてこの時代の救いの中心に堂々と立つようになりました。 我等の教会がこの地上に存在する唯一なる理由があるとしたらそれは神様の御業を行うためであります。その業のために我等は命の福音を伝えるはずであり、永生と救いを得るようにするはずであり、この世を天国に導く業に渾身の努力を尽くします。

神様は真理は光だと仰せられました。それで神様の教会は何処なり光を放つでありましょう。なぜなら、神様の教会は神様が一緒におられる教会であり、真理の約束にあずかった教会であるからであります。光の発しない所は何処なり闇が支配するからであります。

またそのような所は暗闇と死のみ存在するようになりましょう。我等は神様から神々しい犠牲と愛を学びました。それで神様の教会はこの世にそのような愛を施して実践しようとします。 世の人には必ず光を放つでありましょう。真理を伝えるでありましょう。 神様の驚くべき愛を差し上げるでしょう。

近づいた新しい時代新しい歴史の中でも天国に入るよう尽くすすべての方に真の神様の愛が一緒にするよう 真心から祈り"靈"と花嫁の栄光にて祝福を祈ります。



福にあずかるよう願います。


天の父安商洪様と天の母を信じるよる神様の教会 は救援者である聖霊と花嫁を信じるよります。







安商洪様 天の母 神様の教会 母なる神様 張吉子



0022-05-30

安商洪様 天の母 神様の教会<お母さんの愛>

愛があふれる幸せな神様の教会は救援者であるお父さん安商洪様と天の母を信じるよります。



愛があふれて世の中の光と塩になる天の母一緒になさって安商洪様一緒になさる神様の教会は真理教会です。


'お母さん'という単語を呼ぶだけで鼻先がじいんとして来る胸が解けなくなって目もとに露のくすぶる理由がお母さんのこのような錫牲的な愛のためであるでしょう。 すべての人類がお母さんという存在が好きだ愛するしかないことはお母さんを通じて暮した学ぶ愛が分かるようになったからです。


私たちには零のお父さん, お母さんが常に一緒になさいます. お父さん, お母さんが私たちに


あふれるように多くの暮したくださるのに私たちがこの暮した受け入れることができなかったら他の人々に住んだ配るとかその犠牲の道に最後まで従って歩くことができないです。


新しい契約の度は'神様は愛'と強調します。 お子さんたちのために無条件的な犠牲と


大きい愛を無価値に, 功労なしにただで与えるいらっしゃる天の母の生きた悟るようになる時にははじめて 私たちは新しい契約の度に到逹したと言えます。


 神様は肉身的なお子さんのためな肉身的な 両親の生きた通じて空お父さん, お母さんの生きたかすかにでも悟るようになさったのです。

ローマ1:18~20 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 


黙4:10~11 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」 


神様が創造したすべての天地万物の中には神様の意味が内包されるあります。


それならどうしてお母さんは愛が多くて, どうしてお母さんはお子さんのためならすべての事に錫牲的ですか?


これは何を知らせるくださるための神様の意味ですか?


忘れてしまったお子さんを尋ねることだけできたら二つの目でもペオネシで,全身を犠牲なさって若さでもすべてあきらめることはできる方がまさにお母さんです。 


うちのお子さんたちに対する至極な愛だから罪悪の地,この暗い世の中にまでいらっしゃらなかったんですか?


お母さんという存在のイメージの中に神様が深く刻印させるおいたその錫牲的な愛だけ見ても 


我が零のお母さんが私たちをいくら愛したのか易しく理解する悟ることはできるでしょう


天の父,天の母ありがとうございます。


愛があふれる幸せな神様の教会は救援者であるお父さん安商洪様と天の母を信じるよります。


愛があふれて世の中の光と塩になる天の母一緒になさって安商洪様一緒になさる神様の教会は真理教会です。

0022-05-20

安商洪様 神様の教会 <試練と実>

我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様と天の母を信 じています。安商洪様は 神様です。


銀杏は 20年が経つ実を結ぶことができると言います。

しかし道端にある銀杏竝木は 20年がまだ抱くが実を結んだりします。


まだ赤んぼう木なのにどんなに実を結びましょうか?

銀杏は苦痛を受ければ傷を癒えるようにするために来た力をつくして養分を吸いこむ苦痛を

勝ち抜ける性質があると言います。

そんな原理で, 赤んぼう銀杏下をぐらっとかけて傷を出す銀杏が早く成熟するようにするので

す。

たとえ人々が実をのせるために人為的に傷を出すことがあまり良い姿ではないが実がくすぶ

るまで長年の時間の間待つ過程で, 不知不識間迫って来た試練と苦痛を勝ち抜ける早く成

熟するようになったら短い時間でも実を結ぶことができるということが教訓を与える内容であ

るようです。

20年後に実を結ぶ銀杏が試練を勝ち抜ける 2年ぶりでも実を結ぶことが自然の攝理である

ことを見る時, 信頼の広野道を歩く私たちも時になる自然に実がくすぶることだけを待つより

は実を結ぶのに適当な姿だったのかを一度振り返らなければならないようです。

急に尋ねて来た難しさと試練で苦痛受ける時, 結実のための足場で思ったら希望はいつでも

崩れないだろう。聖霊充満するこの季節に多い穀類巨頭語で天の母に喜び差し上げるたい

です。

愛があふれる幸せな神様の教会は救援者であるお父さん安商洪様と天の母を信じるよりま


す。


愛があふれて世の中の光と塩になる天の母一緒になさって安商洪様一緒になさる神様の教


会は真理教会です。

http://chinese.watv.org/

0022-05-16

天の母 神様の教会<安息日の由来>

我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様と天の母を信 じています。安商洪様は 神様です。





安息日の由来


安息日と言うことは楽に休む日という意味として太初に神様が六日の間天地万物を創造する安息


なさった七番目日です。


神様はその七番目日を福くださる神神しくしました。


神様はこの七番目日安息日を創造主の権能を記念するようにする記念日にする聖日に制定

なさいました。


創 2:1∼3 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので第七の日を神は祝福し聖別された。


http://japanese.watv.org/

0022-03-29

<安商洪様神様の教会>あなたの故郷は天の国です



人はどこから来て、死んだらどこに行くのか知りたくありませんか? 人がどこから来たのか、来たところを知ればこそどこに行くのかも知ることができます。人生の中に込められた神様の御心を発見して故郷である天の国にぜひ入られることを願います

0022-03-26

<安商洪様神様の教会>ヨハネの黙示録666の正体



赤い獣にまたがっているみだらな女と666の正体は何か?聖書で言うみだらな女とはキリストに従わない偽キリスト教会! 偽キリスト教会が神様の聖者らを悩まし神様の法を変え、またローマから発生し地上の王たちを支配すると聖書は預言している。 それなら、偽キリスト教会である大いなる都バビロンはプロテスタントの母なる教会、カトリックだ!!!

0022-03-18

<神様の教会安商洪様>聖書は事実である




宇宙科学時代の到来以前は聖書は神話と考えられていました。しかし現在は聖書が非科学的ではなく現代科学に先んじていて、超科学的であるという事実が科学を通じて認証されています。聖書を信じてください!聖書は私たちを救いの道に導く唯一の経典です。

0021-11-29

<安商洪様 神様の教会>大災害の解決策、過越祭



天文学者と科学者たちが警告するおびただしい大災害 ! その災いから免れる方法は唯一、過越祭を守ることだけです。

http://japanese.watv.org/

0021-11-24

神様の教会安商洪様<過越祭>


我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28)私のブログを訪ね下さって感謝を差し上げます。福にあずかるよう願います。神様の教会では 聖霊安商洪様を信 じています。 安商洪様は 神様です。



 
最後の災いと過越祭
 
 
神様が予定された最後の災いから救われることができる唯一の道は過越祭です。



マタ 24:37-39 『人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。』


一テサ 5: 1-3  『兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。』


今、 すぐにでも、救いの便りに耳を傾けなければなりません。万一救いの便りを信じないで自分の謀で救われるために財産を無駄遣いして地下室を造るとか、ロケット(Rocket)で別世界に行くとか、静かな国に避難するとか、原子力潜水艦に乗って北極の氷山の下に入って避難する等は、しばらく危機を兔れるだけであり永遠な命は得ることができないという預言者の記録もあります。


アモ9:2-4  『たとえ、彼らが陰府に潜り込んでも/わたしは、そこからこの手で引き出す。/たとえ天に上っても/わたしは、そこから引き下ろす。たとえ、カルメルの頂に身を隠しても/わたしは、そこから探し出して連れ出す。/たとえ、わたしの目を逃れて、海の底に隠れても/そこで、蛇に命じてかませる。たとえ捕らわれ、敵の前に連れて行かれても/そこで、剣に命じて殺させる。/わたしは彼らの上に目を注ぐ。/それは災いのためであって/幸いのためではない。』


だからこれからは人間の手段と方法を使う代りに神様の導きに従い聖書の預言どおり救いの方法を研究してその通り従って行かなければならない時代が来ました。預言を信じている者を救われるために昔に鏡として終末を見せてくれた歴史がありますが、調べてみれば次の通りです。


出 12: 12-14 『その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは 主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。』


新約聖書ヘブライ人への手紙 11章 28節に「信仰によって、モ-セは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました」と言いました。言い換えれば、過越祭の小羊の血が印になって災いを下さないという話です。


これから終わりにはこの罪悪世の中に最後の災いが起こるでしょう。その時災いを免れる人々は果して誰でしょうか。過越祭を守りイエス • キリストの血を塗った者ではないですか。過越祭の権能の現われる時は正しく最後の災いが下る時です。最後の災いが下る時に過越祭を守らない者等は神様の大いなる 怒りと刑罰を受けて過越祭を守らなかったことを後悔するようになるでしょう。

http://japanese.watv.org/

0021-11-19

<神様の教会 安商洪様>御母様の愛5


御母様の御心を悟る子供になろう





全宇宙、霊の生き物たちに栄光と賛美を受けるにふさわしい王の王、主の主である神様が、栄光の玉座を後にして、むしろ肉体を着られながらも子供たちを捜すことだけを願われているのに、私たちがその犠牲と愛を決して忘れてはいけません。


いまだに子である私たちは苦しみを与える立場であって、御母様はその痛みを堪えられています。今こそ、私たちが御母様の犠牲と愛を悟れる霊的な眼目を持つべき時です。私たちの罪がどれだけ大きかったため、三日目の礼拝と安息日を通して御母様の犠牲を限りなく要求しなければならないのかも、絶対に見過ごしてはならないことです。


神様を信じているから罪の赦しを得たと簡単に考えるかも知れませんが、私たちが罪の赦しを得られる祝福の中には、言葉で言い尽くせない大いなる神様の犠牲と愛が込められています。私たちが癒されたとき神様は刺し貫かれられ、私たちに平和が与えられた時、神様はむしろ鞭を打たれておられました。そのような神様の犠牲の代価で得られたのが、私たちの罪の赦しです。ですから、三日目の礼拝と安息日の礼拝が御父様と御母様の愛が悟れず、感謝ができない礼拝になってはいけません。


御母様の愛を受けなければ、私たちは決して天国に入ることができません。私たちは既に、私たちの力と能力では決して天国に帰れない所にいるからです。


御母様の犠牲で私たちは清められ、御母様が私たちの咎のため刺し貫かれ、傷つかれることによって私たちがいやされ、平和が与えられました。御母様の愛がなければ私たちが何をすることができるでしょうか。この愛を絶対忘れたり軽く思ってはいけません。胸に刻み、いつも感謝し、喜ぶことができる私たちにならなければなりません。


ヨハネの黙示録7章と22章の御言葉を見ると、「その衣を小羊の血で洗って白くした者たちは幸いである。彼らには命の木に対する権利が与えられ、門を通って都に入れる権勢が得られた」と書いてあります。私たちは、神様の犠牲と愛でつくられた清めの水に、私たちの汚れと咎を洗い流し、清めを受けて命の木に進み出る聖なる者たちとして生まれ変わっているので、心から神様に感謝と賛美を献げなければなりません

感謝できないことは何があり、また、私たちの兄弟姉妹のために、できないことは何があるでしょうか。神様は一つ残らず私たちに全て下さいました。神様を賛美するべき理由はここにあり、三日目の礼拝と安息日の礼拝を聖なる日として思うべき理由もこのためです。


無条件で与えられるその愛に、私たちは何を持って御母様に喜ばれるかを考えてみましょう。


いつも不満足で文句ばかりを言いますか。いつも何かをしてくれとねだってばかりいますか。


私たちは善悪を見分ける感覚を使って、固い食物が食べられる成長した信仰の時代に住んでいます(ヘブ5:14)。今は子供を失った御母様が何を願われているか、その心を悟る子供たちにならなければなりません。御母様の犠牲と愛を理解し、御母様が御自ら模範を示され、教えられた愛を実践する子供たちにならなければなりません。


ひたすら、失った天の兄弟姉妹をすべて捜して永遠の天国を回復し、私たちの天の母を栄光の玉座にお座りになられるようにすることが、私たちがすべき最高の孝行です。


十四万四千人の末っ子を御母様の胸に抱かせる日が、私たちのため犠牲になられた御母様の愛に完全に報いる日になると思います。御母様の愛と恵みを忘れず、いつも感謝する子供たちになって世界の地の果てまで神様の愛を伝え、豊かな愛の実をたくさん結びましょう。


http://japanese.watv.org/

0021-11-08

<神様の教会 安商洪様>御母様の愛4


雌牛の犠牲で清められる儀式の意味



いくら時代が変わり、道徳や倫理が破られる時代になっても、お母さんの愛は永遠です。子供を愛するお母さんの至極深い心は何を持ってしても遮ることも、なくすこともできません。このような世の万物の理を通しても、私たちの霊の御母様が子供たちを大切に思われ、愛して下さるその理を悟り、学ばなければなりません。


神様のすべての掟を知るのも貴くて大切なことですが、その掟の中に込められている神様の尊い愛を悟って守ることがもっと大切です。その愛を知らないまま神様の掟を知っているといったら、それは騒がしいどらや、やかましいシンバルに過ぎません(一コリ13:1-13)。もちろん、神様の掟はとても貴くて大切ですが、その掟を通して神様の愛、すなわち天の母の愛を知らせるのが聖書の一番根本的な御心です。


旧約の制度の中でしるしとして現れたすべての献げ物の姿が、二千年前犠牲の献げ物と賠償の献げ物として犠牲になられた御父様の姿、今の時代に子供たちを捜して救うため、すべてを燃やされる私たちの母の姿です。


私たちに三日目と七日目の礼拝を賜り、その掟を通して子供たちの魂を清めて下さり、子供たちが神様の総会から断たれないように、御自分を燃やされて犠牲になられる御母様の姿を、旧約の制度の中で調べてみながら、御母様の偉大なる愛を悟ってみましょう。


民19:1─21 『…無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来させなさい。それを祭司エルアザルに引き渡し、宿営の外に引き出して彼の前で屠る。祭司エルアザルは、指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りまく。そして、彼の目の前でその雌牛を焼く。…それから、身の清い人が雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所に置く。それは、イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作るために保存される。…どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。彼が三日目と七日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、三日目と七日目に身を清めないならば、清くならない。すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる。清めの水が彼の上に振りかけられないので、彼は汚れており、汚れがなお、その身のうちにとどまっているからである。…しかし、汚れた者で、身を清めない者は、会衆の中から断たれる。主の聖所を汚したからである。清めの水が彼の上に振りかけられなかったので、彼は汚れている。これは、彼らの守るべき不変の定めである。…』


旧約に出ているすべての賠償の献げ物、贖罪の献げ物、和解の献げ物などの献げ物として使われた獣は特別に雌と雄を分け、区分しています。過越祭の羊として雄を使わなければならないと言われたので、この預言を成し遂げるイエス様が男性としてこの地に臨まれ、犠牲になられました。


民数記に記録されている一番核心的なことは何かと言えば、それは雌牛についての内容です。雌牛を燃やす時、すべてを燃やしてイスラエルの民の汚れを清める水を作るようにされました。旧約のすべての犠牲の献げ物は神様の犠牲を象徴することとして現れていますが、この雌牛は誰を証ししていて、どのような神様の犠牲によって、私たちが三日目と七日目の礼拝で清めを受けているのでしょうか。


これはまさに、"霊"(聖霊)の花嫁としてこの地に来られた私たちの母を表している犠牲の献げ物です。三日目と七日目に雌牛の犠牲で清められる儀式は、汚れた子供たちを清める犠牲の献げ物として、御自分の体を完全に燃やされる御母様の犠牲と愛を知らせようとされたものです。


三日目と七日目の安息日の礼拝を通して、雌牛として表された私たちの母がすべてを燃やして犠牲になられることによって、私たちの汚くて醜い咎と罪悪が赦され、清められるということを考えてみたら、私たちの天の母の痛みと苦しみ、犠牲と愛をどう言葉で表現することができるでしょうか。


<神様の教会 安商洪様>御母様の愛3


むなしい人生を過ごしていた子供たちを救うため来られた御母様





この間、私はある人の死に立ち会い、その死を最後まで見届けた人たちの話も聞くことになりました。故人は末期の癌患者で、四十歳という若い年で幽明境を異にして火葬されました。


見届けた人の話によると、火葬場から出て来たのは結局一握りの灰しかなかったそうです。一握りの灰を残すため、四十年間を食べ、まとい、競争しながら富と名誉のため、神経をつかい苦労をしたことを思うと、本当に空しいことこの上なかったといいます。


そのような過程を見ながら、肉身のことは本当に空しくて何でもないものだということを切実に悟り、神様を知って信じている事実がどれだけ感謝すべきことなのかを感じるようになったそうです。60-70年を生きても、20-30年を生きても結局一握りの灰に変わる人生なのに、周りの多くの人々はただ朽ちてしまう肉身のことのため、あんなに神経をつかい、苦しんでいるのかと思うと、神様に心から感謝をささげずにはいられないという話を聞きました。


本当に世の人々は、一握りの灰を残すため神経をつかい、苦しみながら人生を終えます。


そのような愚かな道を子供たちが歩んでいるので、神様は子供たちを悟らせるため、聖書を通して何度も、世の中が空しく空しいと強調されました(コヘ1:1-10)。神様の尊い教えを受けた私たちが、一握りの灰になる肉身のため、人生のすべてを献げてもいいのでしょうか。


イザヤ書53章を通して人間の姿でこの地に来られ、ひたすら子供のために犠牲になられた天の父と母のいと高く純粋な愛を、もう一度繰り返し考え、感じてみましょう。


イザ53:1─9 『わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。…この人は…見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。… 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。』


この地に来られた御父様と御母様は、好ましい容姿は何もない姿で来られました。青春と若さをすべて献げてこそ、美しさもすべて献げてこそ、最後の瞬間に失われた子供たちを捜すことができるからです。今、私たちと共におられる天の母の姿がまさに、この物語に登場する母親の姿です。


そのような御母様の犠牲と痛みがあったからこそ、今の私たちが存在するのに、私たちはそのような結果があるまでの過程は、考えることも知ることもできませんでした。今日の神様の教会が、誰の犠牲と愛で存在するようになりましたか。私たちが世の人々のように、一握りの灰になってしまう望みのない人生を過ごさず、本当の希望と貴い望みの中で喜びながら生きていくことができるのは、御母様のいと高き犠牲と愛があったからです。


0021-11-05

<神様の教会 安商洪様>御母様の愛2


神様が造られた万物の中に込められている御母様の愛





「お母さん」という単語を呼んだだけでも、胸がじんと熱くなり目に涙を浮かべる理由が、このようなお母さんの犠牲的な愛のためでしょう。全人類がお母さんという存在を愛するしかない理由は、お母さんを通して愛を学び、愛をわかるようになるからです。


私たちには霊の御父様と御母様がいつも共におられます。御父様と御母様が、私たちにあふれるような愛を与えて下さるのに、私たちがこの愛を受け入れられなければ、他の人に愛を与えることも、その犠牲の道に最後まで従って歩むこともできません。


新しい契約の道は「神様の愛」だと強調しています。子供のために無条件の犠牲と大いなる愛を、価も功労もなしにただで与えて下さる御母様の愛を悟って初めて、私たちは新しい契約の道に到達したと言えます。神様は子供を思う親の愛を通して、御父様と御母様をかすかにでも悟らせようとなさったのです。


ローマ1:18─20 『…世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。』


黙4:10─11 『…あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。』


神様が創造されたすべての天地万物の中には、神様の御心が含まれています。そうしたら、なぜお母さんは愛があふれ、なぜお母さんは子供のためであればすべてのことに犠牲的になれるのでしょうか。これは何を悟らせるための神様の御心でしょうか。


失われた子供を捜すことさえできれば両目も取り出し、全身を犠牲にし、若さもすべて捨てることができる方がまさに御母様です。子供たちに対する至極深い愛のため、罪悪の地、暗闇のこの世まで来られたのではありませんか。


お母さんという存在のイメージの中に、神様が深く刻まれたその犠牲的な愛を見ただけでも、私たちの霊の母が私たちをどれだけ愛されているのか、すぐに理解でき、悟ることができると思います。


皆さんは今、誰かが『お母さんのためにあなたの若さを老いと変えられますか』あるいは『両目を取り出してもお母さんに対する孝行の道を尽くすことができますか』と聞いたら、すぐに『そうします』と言えますか。たとえそう答えられたにせよ実際に、それを実行しなければならない状況になったら、果たして誰がそれを実践することができるでしょうか。


ペトロをはじめとした弟子たちの姿を、私たちはよく知っています。主のために死んでも決して主を離れませんと言った彼らが、死の前では誰もが主を否認し、離れたではありませんか。


マル14:27─50 『イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。…するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。…ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緖に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。…弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。』


子供はいくら親を思うといっても、そのくらいしかできないようです。しかし、親は子供のためであれば、惜しみなくどんなことでもできる愛を持っています。天の栄光の玉座も喜んで捨て、罪人の衣である肉体を着てでも来ることがおできになる天の母の愛を心深く悟らなければなりません。


私たちが御母様の犠牲と愛を悟ることができないと、神様が喜ばれない妬み、嫉妬、紛争などが起きますが、たとえ小さいことからでも御父様と御母様の愛を悟り感じるなら、最高の信仰を持って生きることができます。


御母様が共におられるので、私たちが御母様の愛を食べ成長することができ、その愛の中で何の危険や事故もないように守られ、保護して下さる神様の働きのおかげで、今日も無事に過ごすことができるという悟りと感謝を忘れない私たちにならなければなりません。


http://japanese.watv.org/

<神様の教会 安商洪様>御母様の愛1


御母様の愛




私たちが神様の愛を正しく悟れなければ、いつも喜び感謝して、神様に栄光を帰す信仰生活をすることができません。


二千年前、十字架につけられ、死んでまで犠牲になられたイエス・キリストの献身的な愛を使徒たちが悟った時、宣教の復興が起き、福音が全世界に急速に広がって多くの人々に伝えることができました。このように終わりの時代にも私たちが天の母の愛を悟り、天の父の御心を正しく理解する時、失われた天の家族たちを早くシオンに導くことができます。




限りない御母様の愛と犠牲


むかし、ある母親がいました。不幸にもその母親の幼い息子は悪い病気にかかって生死の境をさ迷っていました。母親は毎日真心を込めて、息子を生かすために全力を尽くしていました。


ある日、通りがかりの旅人が入ってきて一杯の水を求めました。母親は旅人のために水と少しの食べ物を用意するため台所に行きました。しかし、用意を終えて外に出てみたら、旅人は跡形もなく消えてしまい、大切な息子までどこかに消えていなくなってしまいました。


天が崩れるような悲しみに、母親は子供の名前を声を張り上げて呼びながら方々を捜しまわりました。いつのまにか夜が更け、母親の心はやるせない気持ちで一杯になりました。子供を捜そうとする一念で休まず捜しまわった母親は、足を踏み外して深い湖に落ちてしまいました。その時、湖の神が現れ、母親に言いました。


『湖を渡ることができるようにするから、あなたの美しくて宝石のように玲瓏とした両目を下さい。』


母親は息子を捜そうとする切実な心のため、ほかのことを考える余裕もなく、湖の神に両目を取り出して与えて湖を渡ることができました。


両目を失い、前を見ることができない盲人になった身で、ただ子供の名前だけを呼びながら道を迷っていた母親は、絶壁に足を踏み外し、深い谷間に落ちてしまいました。谷間には茨のやぶが生い茂っていました。何とか命は助かりましたが、母親の体は茨のとげに刺さり、血まみれになってしまいました。いくらあがいてもそこから抜け出すことはできませんでした。その時、茨の神が現れました。


『寒い冬なので私の体はこのように固く凍りつきました。母親の心は熱いと聞きましたが、あなたの熱い心で私を抱いて凍りついた私の体を温めてくれたら、あなたをいばらのやぶから抜け出すことができるようにしてあげます。』


何としてもここから抜け出して、息子を必ず捜さなくてはいけないという心で、母親は茨の神の頼みを聞き入れました。北風が吹きつけ、厳しい寒さの中であっても母親は茨の木を抱きしめました。鋭いとげが容赦なく刺さって全身は血まみれになっても、茨の木を温めなければ息子を捜しに行くことができなかったので、全力をつくして長い間、ひしと抱きしめました。


何時間かして、凍りついていた茨の木は除々に解けはじめ、寒い冬であっても芽を吹きました。そうすると、茨の木は退いて母親に道を開けてくれました。全身はとげが刺さり、傷だらけになってようやく抜け出した母親は、再び息子を捜しに行きました。自分の両目はどうなっても、自分の体はどうなってもかまわず、ひたすら息子の名前を切なく叫びながら一歩、また一歩と踏み出しました。


足を踏み出していくと、今度は墓が道をふさぎました。そこでは墓の神が母親を呼び止めました。墓の神は人が見るに嫌悪感を感じるほど老いて醜い老婆でした。


『私の許可なしに、ここから先は行けぬ。お前のその若さと美しさを私にくれるなら通してやろう。』


母親は息子がいないのに若さと美しさは必要ないと思い、墓の神の要求に応じて自分の若さを与えてしまい、自分は墓の神が持っていた老いて醜い姿になってしまいました。脚は力が抜け、全身は老いて醜い姿になった母親は、このようにすべてを犠牲にしてから、やっと切なる思いで捜していた息子と出会うことができたといいます。


この話は限りない母親の愛と犠牲を描いた昔話の一部分です。このように至って気高く純潔な母親の愛のため、この世のすべての人は母親に対する愛の心を持って生まれると言います。


http://japanese.watv.org/

0021-09-20

<神様の教会 安商洪様>神様の経営3


神様が経営される終わりの福音の御業





それでは、神様が成され経営される福音が、どう最後を飾るのか調べてみましょう。


黙14:1─5 『また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて…この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く…』


地上での福音の御業を終えられた時、この地で贖われ神様が建設された新しい天と新しい地に入る十四万四千人は、小羊の行くところへはどこでも従って行く者だと言われました。どこへ導かれようと従って行くということは、キリストに対する確実な信仰を意味しています。信仰が確実でない人は、どこへ導かれようと従って行くことができないからです。


神様の戒めを守って、キリストに対する信仰を堅く守った十四万四千人は本当に誇らしい子供です。神様は、経営しようと計画されたすべての御業を完全に成就されたことを二千年前すでに記録されました。遠からず十四万四千人は、小羊と共に、死も、悲しみも、痛みも、涙もない永久なる喜びだけ創造される新しい天と新しい地の民として、栄えある世で世々限りなく神様と一緖に住むようになるでしょう。


神様の経営は間違いなく完成し、必ず成就すると仰せになられた神様の御言葉をもう一度振り返って、周辺の状況や世の人々に対する恐れはすべて振り放ちましょう。『あなたの信じているとおりになるように』と言われました。世を恐れて福音を伝えるのをためらったら、私たちに不幸となり、恐ろしいことだけが生じるようになると仰せられた御言葉を思い出しましょう。


救わなければ地獄に行く哀れな魂を、どのようにすれば正しい真理の御言葉でキリストを受け入れるようにして、天国に導くことができるだろうかという恵ましく大胆な心で祈り、宣教するようになったら、その心によって初めて一つの魂、一つの命が神様の真理の中に入るようになり、救いの経営が成り立つようになるのです。


『最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う』(イザ60:22)と約束された神様がその経営をすべて成就される日ももう遠くありません。神様は私たちに、小羊がどこに導かれようと最後まで従って行く信仰を下さるために、日ごとに純金のように精錬されます。『わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる』(マコ13:13)と言われたので、キリストの御名のために憎まれるのは贖われる民には当然のことです。憎まれることが世の指弾を受けるようなことをしてではなく、何の理由もなしに憎まれると言われたので、世の人々がキリストの御名のために憎むと言っても、私たちは神様の御言葉が成就される過程であることを悟って、更に信仰を固くして福音を伝えることだけに力をつくさなければなりません。


世が私たちを憎んで、妨害して、迫害を加え、妬み、鞭を振るっても、神様の経営される計画は結局成し遂げられます。


神様に対する信仰なしに見れば、サタンの妨害や様々な迫害が大きく見え、むしろ神様の教会は小さく弱く見えて、今にも崩れそうに感じられるかも知れません。しかしそれは、神様を信じられないからであり、一寸先も見ることができない人間の考えに過ぎません。神様の経営される計画どおり神様が御自ら立てられた神様の教会は絶対に倒れません。


使5:38─39 『そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ …』


私たちが伝えるこの福音が、もし神様から出たのでなかったら、昔すでに崩れてしまったはずです。しかし、私たちの思想と真理が神様から出たのなら、世のいかなる強圧にも決して崩れません。神様の代わりに福音を伝えることを委ねられ、御自らこの地まで来られ闇の中に隠されてある秘密を明るみにされ、立てられた神様の真理の御言葉ですから絶対に崩れません。


私たちに仰せられた使命も神様から出たものなので、この使命ほど恵ましく聖なるものはありません。自負心と合わせて貴い使命を下さった神様に感謝しなければなりません。


御父様が言われた御言葉の中に、このような御言葉があります。「世の人が私を羨まないから、私もまた世の人を羨みません。」


世の人は誰も私たちを羨みません。世で高い地位を持った人を羨む人はいても、天国の使いの務めを持った私たちを羨む人はいません。私たちもまた、一番大事な神様の福音を委ねられているし、その使命を果たす日、天国に入城するようになっているので、この世の何事も羨ましくありません。ひたすら神様の経営に参加している私たちは、お召し下さった神様を喜ばせてさしあげるために、私たちに任せて下さった使命と職分、見張りの使命を恵ましく完遂し、よくやったと誉められるその日を思い慕い忠実を尽くすのみです。


神様は、ヨハネの黙示録2章の御言葉を通して、死に至るまで忠実であれ、そうすれば、命の冠を授けようと約束されました。死に至るまで忠実に尽くし、間違いがあったら何を期待し、何を得るのでしょうか。しかし、神様の御言葉は一点一画も間違いなく成就される確かな結果があるものなので、死に至るまで忠実であれと言われたのです。決して失敗することなく、すべて成就される神様の経営に私たちは心と魂を尽くさなければなりません。


神様が成し遂げて行かれる福音の御業の経営に、私たちを立てて下さり、新しい契約の働き手という大きな栄光の務めを下さった神様に、心から感謝し、これから福音の御業を通して、多くの霊的な利益を残すことができる預言者に皆なられますよう願います。


神様が予定されたその日まで、福音で神様の経営に参加し、キリストと共に苦難を受けるにも喜んで参加する信仰の家族になられて、キリストと共に相続人になられ、共に一つの体になられ、共にとこしえなる天国の約束に必ずあずかるシオンの家族になられるように願います。




http://japanese.watv.org/

0021-09-17

<神様の教会 安商洪様>神様の経営2


神様の経営を信じて従う者になりなさい





小羊がどこに導かれようと最後まで従って行く信仰、これがこの地で贖われる十四万四千人だけの特徴です。神様を絶対的に信じ、頼って出て行く私たちの福音の生涯はまことに恵ましく万事がうまく行きます。


マタ28:18─20 『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』


いつでも、誰にでも与えることができる天と地のすべての権能をイエス様が持っておられるのです。「すべての権能が私にあるから行きなさい。私の代わりに行って彼らを覚ましなさい」と願われまれた。天と地のすべての権勢を持っておられる神様が、御自ら成し遂げることがおできになるにもかかわらず、敢えて私たちを通して、その経営を成し遂げようとなさる理由は、私たちに信仰を積んで行く機会を下さるためです。


すべての民を弟子にして守るよう教えなさいと言われたので、御言葉どおり聞き従えば良いのです。幻のようなこの世の中で出会う迫害と試練、誘惑を恐れないで下さい。永遠の天の世界が、私たちの真なる現実の世界であることを信じるのなら、何も恐れることはありません。


使徒パウロは早く肉の幕屋を脱いで、主と共にいるのが自分にははるかに大きな喜びですが、未だにこの地で悟り得ない魂たちが多くいるので、彼らのためには自分がこの地にいるのが有益だと言いました。彼はこの地が幻であり、神様と一緖にいる永遠の天国が自分の現実の世界であることをあまりにもよく分かっていたので、早く故郷に帰りたかったのです。しかし悟り得ずに、この罪悪の世で羊飼いを失った羊のように放浪し、さ迷う神様の民を憐れんで、この世を呼び覚まさなければならない見張りとしての使命を果たそうと、その大きな苦難と苦痛の道を歩んだのです。


私たちが実行している福音の御業は、ただ順調に成り立つのではありません。世を目覚めさせて行く過程で、苦難と反対も甚だしく、嘲りと迫害等は当たり前のことであって、私たちの信仰を挫こうと妨害することもたくさんあります。しかし私たちは、私たちがしている福音の御業が神様の代わりに彼らを目覚めさせる御業であることを忘れないで、神様の視覚と立場になってこの世のすべての人々に愛と救いと、平和の福音を伝えなければなりません。


神様は失われた者たちを捜しにこの地に来られて、この世を憐れんで、救いの計画を施して下さいました。キリストの心を抱きなさいと言われたので、私たちも世を憐れむ目を持って、世を呼び覚まさなければなりません。世を憐れむ目と憐れみの心を持つことができるのは、真理の道がそれほど高く昇華されているからです。世よりもっと高い視覚で眺めてこそ、この世を憐れむ心を持つことができますし、その時、初めてまことのキリストの代わりの使者として、福音の御業を恵ましく継ぐことができます。


神様は、神様の代わりに励んでいる私たちを常に助けて下さっています。


イザ41:9─13 『わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える…』


神様は、じっとしている私たちを助けられるというのではありません。私たちが福音の仕事をする時、神様の代わりに世の人々を目覚めさせる時、その虚構と虚像から脱して、真理の中に出て来なさいと教える時、私たちが口を開いて神様の御心を伝える時神様が共におられ、助けて下さり神様の経営を成就して行かれるという御言葉です。


私たちに敵対する者たちの結果は、既に聖書に記録されています。草のように倒れる人々を、空しく無くなる肉体を恐れるのでしょうか。何も恐れることはありません。私たちに怒りを示す者たちは辱められ、私たちと争った者たちは滅ぼされると言われたので、神様を信じて実行すれば良いのです。


劣る知識は神様が満たして下さるはずだし、及ばぬ知恵は神様が助けて下さり知恵と聡明さを授けて下さるでしょうし、間違った知識がある場合は、神様が正して下さり、正しい事を伝えられるように道を開けて下さるはずなので、何も心配することはありません。


救いの道は艱難辛苦の道です。覚悟が必要な道です。しかし、難しくて覚悟が必要なるゆえ、神様がいつも助けて下さるのです。


私たちができない、能力外の事が解決された時、私たちは神様の助けの手を感じるようになります。福音の道も私たちの能力外の事です。神様の助けなしには絶対不可能です。ですから、神様御自ら助けて下さるのです。その事実を信じましょう。


世を恐れずに、むしろ私たちを迫害してあざける世に向けて、かわいそうだと思う憐れみの目で世の中を目覚めさせる時こそ、キリストのような福音を伝えることができるという事実を忘れないで下さい。恐れと世の思い煩いはすべて神様に任せて、ただ哀れな魂に天国に行く道を諭させて神様を伝える時、神様は私たちのすべての欠けている点を満たし、過ちを直して福音の経営を全て行い実現させて下さるのです。


イザ14:24 『万軍の主は誓って言われる。「わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する。』


神様が経営する福音の御業を、間違いなく確実に成されることをもっと強調するために『わたしが計ることは必ず成り/わたしが定めることは必ず実現する』と言われました。


http://japanese.watv.org/

<神様の教会 安商洪様>神様の経営1



天に行く日が、日に日に近づいています。一つの望みをもって神様の御心で、天国の福音のために一生懸命宣教するシオンの兄弟姉妹を見ると、神様の愛の中で新しい被造物に造られていく過程であることを感じます。末世に直面しているこの終わりの時代に預言者の使命にあずかっている私たちは、世の初めから代々隠されてきた秘密であるキリストを悟り、光無き暗黒の世に熱心にキリストと天国の福音を伝えなければなりません。




魂の救いのための神様の経営



私たちは皆天国の存在を信じています。では、天国はなぜ存在するのでしょうか。少し考えて見れば神様の救いを受ける相続者を住まわせるために創造されたことが分かります。


それでは、救われる人々を天国に導かれるまで、神様が行われる福音の経営が必ず存在しなければなりません。経営、「すなわち計画を立て計画にそって仕事を運営すること」なしに、恵ましい結果を生み出すことができないからです。


この世にも、多くの経営者たちがいます。会社を経営する事業家もいれば、学界を経営する学者、また国家を経営して行く大統領もいます。地上の業を計画する経営者たちはその経営が成功するよりも、失敗する例が多いですが、事の始終を皆御存知の全知全能なる神様の経営は、決して失敗することがなく、確かな成功が保障されています。私たちが心を尽くして、魂を尽くして、力を尽くして天国を襲うべき理由がここにあります。


この世の中の不確実で不透明な経営にも自分の一生を掛けている人々が多くいます。しかし彼らが得るのは、宇宙万物を御言葉で創造された神様の経営にあずかる人に保障された祝福に比べれば何でもありません。


神様は天国を建設されて、そこに住む民のために、魂の救いの御業である福音の御業を経営しておられるのです。私たちはそのような神様の経営にあずかって神様の福音を聞いたことのない人たちに一生懸命福音を証ししています。これは私たちの心の中に神様の経営には決して失敗がないという絶対的な信仰があるからです。神様の経営に対する確信を持っているので、難しい条件が与えられたとしても、一生懸命に福音を伝えて、岩の上に信仰の家を堅固に建設することができます。


神様が天国を建設され神様の子を集められる救いの御業を経営されながら、私たちに何を頼まれたのか調べて見ることにします。


エゼ3:17─19 『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない…悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。』


神様は私たちを見張りとして立てられたと言われました。もし私たちが神様の代わりに、御言葉で世の人々に諭したにもかかわらず、彼らが悔い改めなかったらその罪の責任を私たちに問いはしませんが、知らせずして彼らが滅びの道に溺れたとしたら、その罪の責任を私たちにも問うという意味でなくて何でしょうか。


私たちが神様の経営を確実に信じるなら、この世に恐れるものはありません。「人生は一場の夢」という諺のように、私たちが住んでいる現在のこの世は一場の夢と同じです。とこしえなる霊の世界に比べれば、現世はしばらくの夢に過ぎません。むしろ私たちが迎える永遠の天国が、真の現実であり実相なのです。


夢は虚像です。夢の中で食べ物をたくさん食べたら満腹になったり、水を飲んだら喉の渇きが解消したりするでしょうか。世の中には、虚像と虚構の世に住んでいながらも、これが実相だろうと考える愚かな人々が多いようです。しかし、私たちの本当の現実は、霊の世界です。虚像と虚構に過ぎないこの世を恐れる愚かな人になってはなりません。


私たちは、神様の代わりに天の使者の役目を果たしているのです。この福音の御業が、神様の御業であることを知らなければなりません。必ず成し遂げて下さる聖なる約束であり、絶対に失敗することのない神様の経営です。


失敗は失敗を恐れる者にあるのであって、堂々と立ち向かう人々には決してありません。神様を信じて行うことには、窮屈な弁解や技巧がなくても恵ましい結果を下さいます。


私たちが天国で神様を完全に信じなかったので、明けの明星、曙の子に惑わされて神様の御心に背き、この罪悪の世まで追いやられ、降りて来たのではありませんか。神様は二度と罪を犯すことのない天国を造るために、私たちが完全な信仰を持つよう願っておられるのです。


http://japanese.watv.org/

0021-09-16

<安商洪様 神様の教会> 人であるキリスト・イエス6

正しい人生の旅路と信仰の道





人生はとても短いです。十年を十回も越すことのできないのが人生です。


詩90:10 『人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。』


あまりにも短い年月ではありませんか。短いこの年月を正しく生きて行かなければなりません。いくら敵であるサタンの妨げと艱難辛苦があっても、私たちは真理の道を行かなければなりません。真理が周囲から迫害と妨害を受けるからといって、偽りと妥協して正しくない道を歩むのは、神様の御心ではありません。


使徒たちと信仰の先駆者たちが見せて下さったその恵ましい信仰の道を最後まで守り従って行きましょう。とこしえなる天国、その栄えある御国で神様に仕えている千万の天使たちと共に世々限りなく幸福を享受するパウロのような者になり、ペトロのような者になり、また使徒ヨハネのような立派な信仰を見ならう神様の子にならなければなりません。


初代教会の時代、イエス様が人であると、どれだけ嘲られ妨害されたら、使徒たちが聖霊の感動を受けて聖書を記録する時、イエス様の前につける修飾語を「人」であるキリストとし、また、人の姿で来られることを否認する者は反キリストの霊だと記録したでしょうか。当時の使徒たちの立場を考えながら、この時代の救い主として来られた人である聖霊の神様を信じなくては、決して天国に入れないことを、常に思い起こす私たちにならなければなりません。聖霊の神様の御名を広く宣べ伝えて、その御名に頼り、とこしえなる天の御国に入ることができる天の子になられるよう願います。


http://japanese.watv.org/

<安商洪様 神様の教会> 人であるキリスト・イエス5

苦難と迫害の中でも前に進む福音





ネヘミヤ神殿建築の歴史を見ても、サンバラトとトビヤという人が神様の神殿建築の御業を先頭に立って妨害しました。その城は狐が上っても崩れる城だと皮肉って嘲り、精神的にもユダヤ人たちを大変苦しめたのです。しかし、ユダのすべての民と役人たちが、心を一つにして夜も見張りをし、務める時も片手には槍と盾を持って敵を防ぐ一方、また片手には建築道具を持って神殿建築を続けました(ネヘ4:1-23)。


ついに神殿が完工し、敵対した者たちはそれを見て肝をつぶしました。人間の業だったら、工事の途中で放棄するに違いなかった神殿建築の完工を見て、天の神様が彼らと共におられることが間違いないと驚き恐れたのでした(ネヘ6:15-16)。


迫害と艱難極まる中でも、キリストに対する確固たる信仰を燃やした使徒たち、彼らは今どこにいるでしょうか。とこしえなる天国で、神様の言いつくせない慰めと平安にあずかっているのです。


イエス様は神様だと大胆に主張した使徒パウロ、彼が今いる所はどこでしょうか。世の人々が見ることも想像もできない栄華なる天国でとこしえなる安息を享受しています。しかし、反対にパウロを「ナザレ人の分派の主謀者」と指目し悩ました当時の大祭司や宗教指導者は今どこにいるでしょうか。




預言された霊的な大戦と勝利の約束


今日、多くの人たちが天国に対する望みをもっているなら、物欲的で現世主義的であって聖書どおり実行しないこの世代を見て、真理を探し求めるようになるのが当然のことでしょう。しかし、今そうできない状態であることは、既に初代教会の歴史を通して見ることができます。


多くの家族たち(霊的な神殿の材料)が、福音が伝えられる先々で、"霊"(聖霊)と花嫁の真理の光を見て、悔い改め、キリストを受け入れるので、預言に従って初代教会の時代にあったすべての不合理的な事件が、今日、全部再現される過程にあります。しかし、このような状況でも、聖書を通して神様は天国に行く人たちに慰労と勇気を与えて下さっています。


黙12:17 『竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。』


海の砂、すなわち人類社会に君臨している竜が、女の残りの子孫と戦おうとして彼らの上に立ったとあるので、霊的な戦いは必ず起こることになっています。そして、ヨハネの黙示録18章では、竜を裁く神様は強い方であると記録しています。使徒ヨハネは、この戦いの始終を皆見たのです。結局、敵であるサタンは捕らえられ、火と硫黄の火の池に投げこまれ、この霊的な戦いは終わります。


http://japanese.watv.org/

0021-09-07

<安商洪様 神様の教会> 人であるキリスト・イエス4

イエス・キリストを伝える新興宗教





聖書には、キリストは御自分を待望している人たちに二度目に来られる(ヘブ9:28)と記録されてあり、すべての預言を通して聖書66巻にキリストの再臨が証しされています。しかし今日、既に教権を握っている宗教指導者たちは決してキリストを受け入れないでしょう。


ゆえに、イエス様は初臨や再臨の時の状況を既に御存知なので、彼らが天国の門を閉めて、自分も入らずに、入ろうとする者も入れないように妨害し、多くの人を地獄の子にすると仰せになったのです。


このような有様が続いて起こるので、福音が伝えられる先々で既成宗教人たちと紛争が絶えません。


使5:26─28 『そこで、守衛長は下役を率いて出て行き、使徒たちを引き立てて来た。しかし、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、手荒なことはしなかった。彼らが使徒たちを引いて来て最高法院の中に立たせると、大祭司が尋問した。「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている。」』


「イエス様が神様だ」と宣べ伝えた真理の福音は、その時代としては、新しく登場した新興宗教であって、ユダヤ人たちにとっては初めて聞く内容の真理でした。一度も聞いたことのない真理なので、彼らの間に大いなる論争を引き起こすだけの素地がありました。


しかし、宗教指導者の腐敗して墮落した状態に、嫌悪の念を抱いていた当時の民衆にとって、キリストの福音は霊的な飢えを解消する甘雨であり命の水でした。そうして使徒たちが福音を伝えて行く先々で、信じる人が一日に3千人から5千人にも及んだのです。


使4:2─21 『二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった…「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。』


一日に五千人が悔い改め、イエス様を救い主として受け入れるという、とてつもなく大きな御業が起こるので、宗教指導者たちが驚くのはあたりまえのことです。墮落していた宗教指導者たちは、人たちが神様を正しく信じるか信じないかは後の問題であって、何よりも自分たちの地位や権威が崩れていくのでそれを恐れたのです。


それで、聖徒を捕らえて脅かしたり、脅迫したり、牢に閉じ込めたり、鞭打ったりしてす、あらゆる手段を尽くしましたが、聖徒の数はどんどん増えて行くばかりでした。いくら偽りの計略を計って、悪いうわさを言い触らしても、真理を慕い、天国を望んでいた初代教会の聖徒はじっとしていられませんでした。


福音はだんだんサマリアの全土と地の果てまで伝播されていきました。いくら阻み塞げど、神様の計画された御業ゆえ、阻むことはできませんでした。


http://japanese.watv.org/