雌牛の犠牲で清められる儀式の意味
いくら時代が変わり、道徳や倫理が破られる時代になっても、お母さんの愛は永遠です。子供を愛するお母さんの至極深い心は何を持ってしても遮ることも、なくすこともできません。このような世の万物の理を通しても、私たちの霊の御母様が子供たちを大切に思われ、愛して下さるその理を悟り、学ばなければなりません。
神様のすべての掟を知るのも貴くて大切なことですが、その掟の中に込められている神様の尊い愛を悟って守ることがもっと大切です。その愛を知らないまま神様の掟を知っているといったら、それは騒がしいどらや、やかましいシンバルに過ぎません(一コリ13:1-13)。もちろん、神様の掟はとても貴くて大切ですが、その掟を通して神様の愛、すなわち天の母の愛を知らせるのが聖書の一番根本的な御心です。
旧約の制度の中でしるしとして現れたすべての献げ物の姿が、二千年前犠牲の献げ物と賠償の献げ物として犠牲になられた御父様の姿、今の時代に子供たちを捜して救うため、すべてを燃やされる私たちの母の姿です。
私たちに三日目と七日目の礼拝を賜り、その掟を通して子供たちの魂を清めて下さり、子供たちが神様の総会から断たれないように、御自分を燃やされて犠牲になられる御母様の姿を、旧約の制度の中で調べてみながら、御母様の偉大なる愛を悟ってみましょう。
民19:1─21 『…無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来させなさい。それを祭司エルアザルに引き渡し、宿営の外に引き出して彼の前で屠る。祭司エルアザルは、指でその血を取って、それを七度、臨在の幕屋の正面に向かって振りまく。そして、彼の目の前でその雌牛を焼く。…それから、身の清い人が雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所に置く。それは、イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作るために保存される。…どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。彼が三日目と七日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、三日目と七日目に身を清めないならば、清くならない。すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる。清めの水が彼の上に振りかけられないので、彼は汚れており、汚れがなお、その身のうちにとどまっているからである。…しかし、汚れた者で、身を清めない者は、会衆の中から断たれる。主の聖所を汚したからである。清めの水が彼の上に振りかけられなかったので、彼は汚れている。これは、彼らの守るべき不変の定めである。…』
旧約に出ているすべての賠償の献げ物、贖罪の献げ物、和解の献げ物などの献げ物として使われた獣は特別に雌と雄を分け、区分しています。過越祭の羊として雄を使わなければならないと言われたので、この預言を成し遂げるイエス様が男性としてこの地に臨まれ、犠牲になられました。
民数記に記録されている一番核心的なことは何かと言えば、それは雌牛についての内容です。雌牛を燃やす時、すべてを燃やしてイスラエルの民の汚れを清める水を作るようにされました。旧約のすべての犠牲の献げ物は神様の犠牲を象徴することとして現れていますが、この雌牛は誰を証ししていて、どのような神様の犠牲によって、私たちが三日目と七日目の礼拝で清めを受けているのでしょうか。
これはまさに、"霊"(聖霊)の花嫁としてこの地に来られた私たちの母を表している犠牲の献げ物です。三日目と七日目に雌牛の犠牲で清められる儀式は、汚れた子供たちを清める犠牲の献げ物として、御自分の体を完全に燃やされる御母様の犠牲と愛を知らせようとされたものです。
三日目と七日目の安息日の礼拝を通して、雌牛として表された私たちの母がすべてを燃やして犠牲になられることによって、私たちの汚くて醜い咎と罪悪が赦され、清められるということを考えてみたら、私たちの天の母の痛みと苦しみ、犠牲と愛をどう言葉で表現することができるでしょうか。
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