御母様の御心を悟る子供になろう
全宇宙、霊の生き物たちに栄光と賛美を受けるにふさわしい王の王、主の主である神様が、栄光の玉座を後にして、むしろ肉体を着られながらも子供たちを捜すことだけを願われているのに、私たちがその犠牲と愛を決して忘れてはいけません。
いまだに子である私たちは苦しみを与える立場であって、御母様はその痛みを堪えられています。今こそ、私たちが御母様の犠牲と愛を悟れる霊的な眼目を持つべき時です。私たちの罪がどれだけ大きかったため、三日目の礼拝と安息日を通して御母様の犠牲を限りなく要求しなければならないのかも、絶対に見過ごしてはならないことです。
神様を信じているから罪の赦しを得たと簡単に考えるかも知れませんが、私たちが罪の赦しを得られる祝福の中には、言葉で言い尽くせない大いなる神様の犠牲と愛が込められています。私たちが癒されたとき神様は刺し貫かれられ、私たちに平和が与えられた時、神様はむしろ鞭を打たれておられました。そのような神様の犠牲の代価で得られたのが、私たちの罪の赦しです。ですから、三日目の礼拝と安息日の礼拝が御父様と御母様の愛が悟れず、感謝ができない礼拝になってはいけません。
御母様の愛を受けなければ、私たちは決して天国に入ることができません。私たちは既に、私たちの力と能力では決して天国に帰れない所にいるからです。
御母様の犠牲で私たちは清められ、御母様が私たちの咎のため刺し貫かれ、傷つかれることによって私たちがいやされ、平和が与えられました。御母様の愛がなければ私たちが何をすることができるでしょうか。この愛を絶対忘れたり軽く思ってはいけません。胸に刻み、いつも感謝し、喜ぶことができる私たちにならなければなりません。
ヨハネの黙示録7章と22章の御言葉を見ると、「その衣を小羊の血で洗って白くした者たちは幸いである。彼らには命の木に対する権利が与えられ、門を通って都に入れる権勢が得られた」と書いてあります。私たちは、神様の犠牲と愛でつくられた清めの水に、私たちの汚れと咎を洗い流し、清めを受けて命の木に進み出る聖なる者たちとして生まれ変わっているので、心から神様に感謝と賛美を献げなければなりません。
感謝できないことは何があり、また、私たちの兄弟姉妹のために、できないことは何があるでしょうか。神様は一つ残らず私たちに全て下さいました。神様を賛美するべき理由はここにあり、三日目の礼拝と安息日の礼拝を聖なる日として思うべき理由もこのためです。
無条件で与えられるその愛に、私たちは何を持って御母様に喜ばれるかを考えてみましょう。
いつも不満足で文句ばかりを言いますか。いつも何かをしてくれとねだってばかりいますか。
私たちは善悪を見分ける感覚を使って、固い食物が食べられる成長した信仰の時代に住んでいます(ヘブ5:14)。今は子供を失った御母様が何を願われているか、その心を悟る子供たちにならなければなりません。御母様の犠牲と愛を理解し、御母様が御自ら模範を示され、教えられた愛を実践する子供たちにならなければなりません。
ひたすら、失った天の兄弟姉妹をすべて捜して永遠の天国を回復し、私たちの天の母を栄光の玉座にお座りになられるようにすることが、私たちがすべき最高の孝行です。
十四万四千人の末っ子を御母様の胸に抱かせる日が、私たちのため犠牲になられた御母様の愛に完全に報いる日になると思います。御母様の愛と恵みを忘れず、いつも感謝する子供たちになって世界の地の果てまで神様の愛を伝え、豊かな愛の実をたくさん結びましょう。
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