0021-11-08

<神様の教会 安商洪様>御母様の愛3


むなしい人生を過ごしていた子供たちを救うため来られた御母様





この間、私はある人の死に立ち会い、その死を最後まで見届けた人たちの話も聞くことになりました。故人は末期の癌患者で、四十歳という若い年で幽明境を異にして火葬されました。


見届けた人の話によると、火葬場から出て来たのは結局一握りの灰しかなかったそうです。一握りの灰を残すため、四十年間を食べ、まとい、競争しながら富と名誉のため、神経をつかい苦労をしたことを思うと、本当に空しいことこの上なかったといいます。


そのような過程を見ながら、肉身のことは本当に空しくて何でもないものだということを切実に悟り、神様を知って信じている事実がどれだけ感謝すべきことなのかを感じるようになったそうです。60-70年を生きても、20-30年を生きても結局一握りの灰に変わる人生なのに、周りの多くの人々はただ朽ちてしまう肉身のことのため、あんなに神経をつかい、苦しんでいるのかと思うと、神様に心から感謝をささげずにはいられないという話を聞きました。


本当に世の人々は、一握りの灰を残すため神経をつかい、苦しみながら人生を終えます。


そのような愚かな道を子供たちが歩んでいるので、神様は子供たちを悟らせるため、聖書を通して何度も、世の中が空しく空しいと強調されました(コヘ1:1-10)。神様の尊い教えを受けた私たちが、一握りの灰になる肉身のため、人生のすべてを献げてもいいのでしょうか。


イザヤ書53章を通して人間の姿でこの地に来られ、ひたすら子供のために犠牲になられた天の父と母のいと高く純粋な愛を、もう一度繰り返し考え、感じてみましょう。


イザ53:1─9 『わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。…この人は…見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。… 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。』


この地に来られた御父様と御母様は、好ましい容姿は何もない姿で来られました。青春と若さをすべて献げてこそ、美しさもすべて献げてこそ、最後の瞬間に失われた子供たちを捜すことができるからです。今、私たちと共におられる天の母の姿がまさに、この物語に登場する母親の姿です。


そのような御母様の犠牲と痛みがあったからこそ、今の私たちが存在するのに、私たちはそのような結果があるまでの過程は、考えることも知ることもできませんでした。今日の神様の教会が、誰の犠牲と愛で存在するようになりましたか。私たちが世の人々のように、一握りの灰になってしまう望みのない人生を過ごさず、本当の希望と貴い望みの中で喜びながら生きていくことができるのは、御母様のいと高き犠牲と愛があったからです。


0 件のコメント: