0021-11-05

<神様の教会 安商洪様>御母様の愛2


神様が造られた万物の中に込められている御母様の愛





「お母さん」という単語を呼んだだけでも、胸がじんと熱くなり目に涙を浮かべる理由が、このようなお母さんの犠牲的な愛のためでしょう。全人類がお母さんという存在を愛するしかない理由は、お母さんを通して愛を学び、愛をわかるようになるからです。


私たちには霊の御父様と御母様がいつも共におられます。御父様と御母様が、私たちにあふれるような愛を与えて下さるのに、私たちがこの愛を受け入れられなければ、他の人に愛を与えることも、その犠牲の道に最後まで従って歩むこともできません。


新しい契約の道は「神様の愛」だと強調しています。子供のために無条件の犠牲と大いなる愛を、価も功労もなしにただで与えて下さる御母様の愛を悟って初めて、私たちは新しい契約の道に到達したと言えます。神様は子供を思う親の愛を通して、御父様と御母様をかすかにでも悟らせようとなさったのです。


ローマ1:18─20 『…世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。』


黙4:10─11 『…あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。』


神様が創造されたすべての天地万物の中には、神様の御心が含まれています。そうしたら、なぜお母さんは愛があふれ、なぜお母さんは子供のためであればすべてのことに犠牲的になれるのでしょうか。これは何を悟らせるための神様の御心でしょうか。


失われた子供を捜すことさえできれば両目も取り出し、全身を犠牲にし、若さもすべて捨てることができる方がまさに御母様です。子供たちに対する至極深い愛のため、罪悪の地、暗闇のこの世まで来られたのではありませんか。


お母さんという存在のイメージの中に、神様が深く刻まれたその犠牲的な愛を見ただけでも、私たちの霊の母が私たちをどれだけ愛されているのか、すぐに理解でき、悟ることができると思います。


皆さんは今、誰かが『お母さんのためにあなたの若さを老いと変えられますか』あるいは『両目を取り出してもお母さんに対する孝行の道を尽くすことができますか』と聞いたら、すぐに『そうします』と言えますか。たとえそう答えられたにせよ実際に、それを実行しなければならない状況になったら、果たして誰がそれを実践することができるでしょうか。


ペトロをはじめとした弟子たちの姿を、私たちはよく知っています。主のために死んでも決して主を離れませんと言った彼らが、死の前では誰もが主を否認し、離れたではありませんか。


マル14:27─50 『イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。…するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。…ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緖に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。…弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。』


子供はいくら親を思うといっても、そのくらいしかできないようです。しかし、親は子供のためであれば、惜しみなくどんなことでもできる愛を持っています。天の栄光の玉座も喜んで捨て、罪人の衣である肉体を着てでも来ることがおできになる天の母の愛を心深く悟らなければなりません。


私たちが御母様の犠牲と愛を悟ることができないと、神様が喜ばれない妬み、嫉妬、紛争などが起きますが、たとえ小さいことからでも御父様と御母様の愛を悟り感じるなら、最高の信仰を持って生きることができます。


御母様が共におられるので、私たちが御母様の愛を食べ成長することができ、その愛の中で何の危険や事故もないように守られ、保護して下さる神様の働きのおかげで、今日も無事に過ごすことができるという悟りと感謝を忘れない私たちにならなければなりません。


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