神様の力ある御手はイスラエルの歴史の中に顕著に現れています。その昔ヨシュアがイスラエルの民を率いてエリコに向かって出て行く時もそうでした。
ヨシュアが民と一緖にヨルダン川を渡る時は、ちょうど小麦と大麦の春の刈り入れの時期でしたが、この時は川が汎濫して、堤を越えるほど水があふれ、また流れがあまりにも急で渦巻いており、人間の力ではとうてい川を渡ることができませんでした。
しかし、彼等は洪水の恐怖感よりも、全能の御手で助けて下さる神様に対する信念に満たされていたので、その仰せの御言葉に従って契約の箱を担ぎ、隊伍を組んでとどこおりなく川を渡ることができました。
ヨシュ3:14-17 『ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。』
もし、川を渡れと指し示された神様の命令を目先の現実がために実行できなかったら外的状況に屈伏してしまい、勇気ある足取りを移すことができなかったら、イスラエルの民はきっと乳と蜜の流れるカナンの土地を踏むことができずに荒れ野で伏してしまったことでしょう。
神様が進めと言われ、ヨルダンを渡れと仰せられたので荒れ狂う川の中に恐れなく足を入れることができたイスラエルの民は、陸地のように進めるよう、川の水を止められる神様の御力を経験することができました。
エリコ城に至った時も、刀と槍で城を攻撃せずに、六日間城の周囲を一度ずつ回って角笛を吹き鳴らせと仰せられた神様の命令に従いました。彼等はエリコ城を陥落させようとなさる神様の御計画があったことを最後の七日目の日、城の周囲を七度回ってからやっとわかったのです。
ヨシュ6:1-20 『・・・翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司はそれぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の箱の前を進んだ。武裝兵は、更にその前衛として進み、また後衛として主の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。町を七度回ったのはこの日だけであった・・・角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。』
一斉にエリコ城に向かって、角笛を吹きながら力ずくで叫べとの御言葉にそってその通り遵行したので、あれほど堅固に見えた城壁がイスラエルの民の前で力無く崩れ落ちたのです。それはイスラエルの民が力ずくで叫んだ声のためではありません。エリコ城を回れと仰せられた時に、神様に頼ってその城の周囲を回り、叫べとの仰せに聞き従って力ずくで叫んだ、彼らの信仰の後に神様の御力があったからです。
もし神様が叫べと仰せられた時に、10%に当たる一部の民のみ叫んで、その残りは何もしなかったとしたら、果たしてこのような結果をもたらすことができたでしょうか。決してそうならなかったことでしょう。もし、そのようにしていたなら信仰の御業に働かれる神様の御手が加わらなかったでしょう。
皆一斉に叫べと仰せになられた時、叫ぶ者の資格や能力が問題になったでしょうか。決してそうではありません。神様はただの1%の不可能もない方なので、神様が叫べと仰せになれば叫び、遵行せよと仰せになれば遵行してその方の御旨どおり聞き従うのが勝利を得る道だったのです。
今日、私たちも、このように叫ぶ業に召されました。大バビロン城に向かって角笛を力強く吹き鳴らす時私たちと一緖に働かれる神様の御力を感ずることができます。
全知全能であられ、無所不在であられる神様がこの時代に果たして黙々としておられるでしょうか。すべての預言の御業が今日実相として成就されているので、かえって過去のどの時代よりももっと強く私たちを助けて下さいます。しかし神様のお召しに従って動かず、自己の使命を実行しなかったなら、その強烈な御力と助けが理解できず感じることもできなくなります。
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