0021-09-06

<安商洪様 神様の教会> 人であるキリスト・イエス2

イエス様の神性が悟れなかった使徒時代の現実





当時、教権を握っていた律法学者たちやファリサイ派の人々、すべての権力を握っていた宗教人たちは、イエス様を拒み、背いて受け入れませんでしたが、使徒たちは『万物は御子において造られた』また『御子は、見えない神の姿である』『イエスは、神の身分である』『永遠にほめたたえられる神』と表現してイエス様を受け入れて信じたのです。


当時は、イエス様について信仰を持つことは至って難しい時代でした。二千年前、渇いた地から生え出た若枝のような姿で、人たちから慕われるほどの麗しさを持っていらっしゃらなかったイエス様が、この地に来られ宣教された福音は、当時のファリサイ派の人々、律法学者たち、教権を握っていた宗教指導者たちの目には偽りの福音に見えたのです。


その時まででも、神様に対する祭祀の儀式に欠かさずに登場した最も重要な献げ物は獣でした。獣が祭祀の中心になり、獣を献げ物とし、獣の血を流して神様に祭祀(礼拝)をささげていた頃「今からはわたしが来たから獣の血は要らない」と言われたイエス様の教えは、自分たちが代々行って来た祭りの儀式とはあまりにも違うので、彼らはイエス様を「ナザレ人の分派」と見なしたのです。


彼らはイエス様がキリストである事実を見抜けなかったので、神様がこの地に来られて実行される救いの御業を妨害するようになり、おそれ多くも神様を様々な悪口で呪う立場に立ったのです。


ヨハ10:30─33 『「わたしと父とは一つである。」ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」』


人間なのに自分を神様だと言ったという理由から、当時の宗教指導者たちはキリストを迫害したのです。使徒パウロは、イエス様が神様の身分であることを、使徒ヨハネもイエス様が初めからおられた「言の神様」、正にその方であることを証ししたように、弟子たちはキリストを正しく見極めて受け入れましたが、当時、教会の教権を掌握していた宗教指導者たちの考えは全く違っていました。


彼らは自分たちが信じている神様は、この世の人が真似ることのできない雄壯にして華麗なる栄光の輝きの中に来られると信じていました。ところが、人の姿で来られて、悔い改めなさい、天国が近づいたと仰せになり、自分たちの悪行に対して悔い改めを促し、警告をされたので、憤りを抱いてイエス様を排斥したのです。使徒たちがイエス様を人の姿で来られた神様として見た時、彼らはイエス様を、一人の人間としてしか見ませんでした。


今日においても、キリストが人の姿でこの地に来られるという問題が、既存の宗教人たちに反感を買い、また排斥されることが、既に初代教会の御業の中で預言的にはっきり証しされていることを、私たちは知らなければなりません。それでは二千年前、キリストが人の姿でこの地に来られて福音を証しされ、その御名を信じなさいと教えられた時、どういう汚名を負わせられたのか詳しく調べて見ます。


 
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