0020-03-22

神様の教会安商洪様<霊魂2>神様の教会영혼2

「人は死んだらどうなるのか。人には魂というのが果してあるのだろうか。人は死んだらどこに行くのだろうか」 という考えは今まで多くの人の関心と同時に解くことができない宿題として残っていました。
すべての人間たちは 「私」という存在に対して思って研究したがその誰も答えを与えることができず、「私」を誰が創造したのか悟ることができなかったまま、ただ知りたい欲望だけが先立って哲学を作り出したりもしました。
このように魂について無知だった私たちに、安商洪様が来られて神様の教会を建ててくださり、聖書に明示されたとおり全人類は天で罪を犯してこの地に下った天使だということを知らせて、自分の存在価値と生の目的を故郷である天に残して生きて行かなければならないということを正確に知らせてくださいました。 我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28) 神様の教会では安商洪様を信じています。神様の教会では天の母を信じています。



使徒パウロの思想と魂



3使徒パウロの思想と使徒たちの思想を学ぼうとする理由は、彼らの思想がイエス•キリストの教訓を通じて定立されイエス•キリストの教えを通じて立てられたからです。使徒たちの思想の中には私たちの肉体が魂の家だと刻印されています。


二コリ 5:1『わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。』


私たちの魂は現在臨時に使う幕屋(肉体)の中に住んでいますが、救いを得て天国へ行けば臨時用ではない、神様が作ってくださった永遠なる家の中で住むようになるでしょう。


二コリ 5:6 『それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり…わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。』


使徒パウロのこの手紙の内容は、主(イエス • キリスト)は霊の世界におられ、私たちは 体 の世界にいるので肉体を着ている間には主と別にいて、パウロと聖徒たちが願うのは早く体を去って主とともにいることだと言いました。


この御言葉の中で肉体を着ているのは誰で、肉体を去る存在は誰ですか。肉体 を去りたいと言った存在はパウロ自身、すなわちパウロの魂でした。これは彼の肉体が命の本質ではなく、肉体の中にいるその霊がパウロ本人だという御言葉です。言い換えると使徒パウロは臨時に住んでいる幕屋 (肉体) 生涯のための生のみを願ったのではなく、その霊が幕屋を脱して神様が賜わる永遠の家に住む時の生涯のために準備する生を暮したのです。


彼がフィリピ教会の信徒たちに送る手紙では次のように記録しています


フィリ1:21~24 『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです…この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、 この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる 方が、あなたがたのためにもっと必要です。』


先立って引用した「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」(二コリ5:6)という御言葉と「私が…去って」(フィリ 1:21∼24)という御言葉は同じ内容です。去るということは、後の内容「肉身にいることが」という部分が説明するように、肉身を去ることを言っています


それでは、肉身にとどまったり肉身で去ったりする存在は誰ですか。パウロ自身、すなわちパウロの魂です。


そしてパウロは自分が肉体を去るより肉身にとどまることが聖徒たちにはもっと有益だと言ったが、これはパウロが肉身を去れば(死ねば) キリストのところに行くから自分には良いことだが、聖徒たちにはパウロが肉身で一緒にいながら神様の真理を教えて正しい道に導くことが、もっと有益になるという御言葉です。


そしてパウロは自分が神様から受けた默示の内容を説明しながら次のように記録しました。


二コリ 12:1-3『わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。』


パウロは自分が默示を見た当時、「体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです」 と二回も繰り返して記録しました。


この御言葉の中現われた内容を見る時パウロは肉体と分けられた魂が別にあるという思想を持っていたのでしょうか。それとも魂が別に存在しないという思想を持っていたのでしょうか。


彼がもし魂が別に存在しないという思想を持っていたら「体のままか、体を 離れてかは 知りません。神がご存じです」という表現ができたのでしょうか。これはパウロ自分が默示を見る時(彼は自分が默示を見た事実を 3人称である「ひとり」、「その」と呼んでいる)自分の霊が身をすり抜けて楽園へ行ったのか、それとも身とともに行ったのか自分は分からなかったという御言葉です。


我等の神様の教会は神様が御自ら立てられたこの地上の唯一の真の教会であります。(使20:28) 神様の教会では安商洪様を信じています。神様の教会では天の母を信じています。

2 件のコメント:

♥Spirit-Bride♥ さんのコメント...

AMEN! we can clearly understand that Jesus Christ had taught and revealed that the spirit exists within men.

NaNa さんのコメント...

ア―メン^^ spirit-bride様 福にあずかるよう願います。